連載小説『感情の忘れ物5 品川・三浦省吾編』第6話 ~メインディッシュ:新宿の猛毒チーズ(Grand Plat)~

2027.01.03 品川 『Le Miroir』個室(半壊)

「あぁ!? なんで俺がわざわざ品川まで来なきゃなんねえんだよ!!」

粉塵が舞う個室に、須藤の怒号が響き渡った。

彼は瓦礫と化した椅子を踏みつけ、コンビニ袋を提げたまま、部屋の中央へズカズカと歩み寄る。

「おい巣鴨! 今日の『感情スルー』の修行、すっぽかしただろ! センターに行ってもいねえから、おばあちゃんたちに聞き込みして、ここまで追いかけてきたんだぞ!」

「す、須藤さぁぁぁん!!」

理沙は腰を抜かしたまま、涙目で叫んだ。

これほど、この柄の悪い男が頼もしく見えたことはない。

「……チッ。なんだ、この騒ぎは」

須藤はサングラスを少しずらし、状況を見渡した。

壁に叩きつけられて伸びているクソガキ。

泣きじゃくるアホ弟子。

そして、その中心に立つ、異様なオーラを放つ白衣の男。

「……おい、そこのコック。お前か? 俺の弟子をいじめてんのは」

三浦省吾は、不快そうに眉をひそめた。

彼の「美食」の時間は、この無粋な闖入者によって台無しにされた。

「……貴様、何者だ? 私の神聖な厨房に、土足で踏み込むとは」

三浦は須藤を『視覚』でテイスティング(鑑定)する。

(……なんだ、この男は? 品がない。知性も感じられない。そして何より……)

三浦の目には、須藤の全身から立ち上る、どす黒く、しかし煮えたぎるような赤黒いオーラが見えていた。

それは、新宿という欲望の街で、何千何万という人間の汚い感情(ノイズ)を浴び続け、それを無理やりねじ伏せてきた者だけが持つ、凶悪な「残り香」だ。

「……臭いな。まるで生ゴミと臭豆腐を煮込んだような、下品な臭いだ」

三浦はハンカチで鼻を覆った。

「あぁ? 誰が臭えだと?」

須藤の額に青筋が浮かぶ。

彼はコンビニ袋を床に放り投げると、ボキボキと拳を鳴らした。

「てめぇこそ、何食ってそんなにテカテカしてやがる。……あぁ、そうか。お前も『同類』か」

須藤は鼻を鳴らした。

理沙やリアムの消耗具合、そして三浦の異常なハイテンションぶりを見て、直感的に理解したのだ。

こいつは、感情を「食って」やがる。

「……その通りだ。私は感情の美食家。貴様のようなジャンクフード(粗野な食材)には興味がないが……」

三浦の眼鏡が怪しく光る。

「メインディッシュの邪魔をするなら、貴様も『アッシェ(挽肉)』にしてやる」

ドォォォン!!

三浦が床を蹴った。

先ほどリアムを一撃で沈めた超人的なスピード。

黄金のオーラを纏った手刀が、須藤の首を狙って振り下ろされる。

「危ないッ!!」

朦朧(もうろう)とする意識の中、リアムが叫ぶ。

須藤は間一髪でその一撃をかわした。

三浦の手刀が、須藤の鼻先を掠める。

ブンッ!!

空を切った手刀の風圧だけで、背後の壁紙がビリビリと破れた。

「……あっぶねえなあ!! いきなり何しやがるコラァ!!」

須藤はサングラスをずり上げ、額の冷や汗を拭った。

「てめぇ、殺す気か!?」

「……ほう。避けたか」

三浦は少し驚いたように眉を上げた。

今の攻撃は、確実に首を刎ねるつもりで放った。並の人間なら反応すらできない速度だったはずだ。

「……貴様、ただのチンピラではないな」

三浦が再び構えようとした時。

彼の『視覚』が、ある一点に釘付けになった。

須藤の首元だ。

そこには、無骨な黒いヘッドフォンが掛けられている。

激しい動きで位置がズレたイヤーパッドの隙間から、三浦の鼻腔を刺激する、とてつもなく強烈な「匂い」が漏れ出していたのだ。

「……ん? なんだ、そのヘッドフォンは?」

三浦の目が、獲物を狙う獣のように細められた。

「……あ?」

須藤が自分の首元に手をやる。

「これか? これが気になるのか?」

須藤がニヤリと笑った。

その笑顔は、三浦の優雅な笑みとは対照的な、野獣の笑みだった。

「へぇ。お前、何でも食うんだなぁ」 

須藤はゆっくりと、自分の首から愛用のヘッドフォンを外した。

その瞬間。 

ゾワワワワワッ……!! 

部屋の空気が凍りついた。 

ヘッドフォンから溢れ出したのは、音ではない。

赤黒い瘴気。

それは、新宿歌舞伎町の混沌、秋葉原の電脳ノイズ、そして須藤自身が抱え込んできた、膨大な「他人のストレス」の結晶。 

それが、先ほど三浦が顔をしかめた『生ゴミと臭豆腐の臭い』と混ざり合った瞬間――劇的なマリアージュ(化学反応)を起こした。

「……なっ!?」 

三浦の目が釘付けになる。

 鼻腔を突き抜けたのは、ただの腐敗臭ではない。

息が詰まるほど芳醇で、複雑怪奇な『極上の熟成香』だ。

(……素晴らしい。あの下品な臭いは、奥底に秘められた高純度の感情を極限まで発酵させるための『青カビ』だったというわけか……!!)

「こ、これは……!! なんという刺激的で、痛烈な香りだ……!!」

 三浦の口元から、タラリと涎(よだれ)が溢れ出した。

 甘い「嫉妬」や「善意」という行儀の良いコース料理ばかり食べてきた彼の舌は、今、最高級のゴルゴンゾーラチーズのように強烈で暴力的な「未知なる珍味」を求めて疼き狂っている。

「食いたいか? ほらよ、特選素材だ」 

須藤は、その濃密な瘴気を纏ったヘッドフォンを、無造作に放り投げた。

「よこせェェッ!!」

三浦は理性を失い、飛びついた。

空中でヘッドフォンをキャッチすると、そこに纏わりつく赤黒い瘴気を、掃除機のように一気に吸い込み、貪り食った。

「んぐッ……!! ガブッ、ジュルッ……!!」

三浦の喉が鳴る。

理沙が悲鳴を上げ、リアムが顔を覆う中、三浦は着地と同時に一滴残らず、その「特選素材」を体内に取り込んだ。 

そして、至福に満ちた恍惚の表情を浮かべた瞬間。

「……ぐ、ふっ……!?」 

三浦の動きが止まった。

「……あ、が……ッ!? え、エグい……ッ!?」

三浦の顔色が、みるみるうちに赤から紫、そして土気色へと変わっていく。 

全身から脂汗が噴き出し、膝がガクガクと震え始めた。

「な、なんだこれは……!? 味が、匂いが、重すぎる……ッ! 舌が、食道が、胃が……腐り落ちるようだッ!!」

三浦は喉を掻きむしり、のたうち回った。

ギィィィャアアアアッ……!! ジュウゥゥゥッ、ゴボァッ!!

それはただの珍味ではない。

「死ね」「消えろ」「金返せ」「裏切り者」……。

須藤が日々受け流している、数えきれないほどの負の感情(カース)。

耐性のない人間が一度に摂取すれば、精神崩壊を起こすほどの、限界まで発酵した劇薬だ。

「あ、頭が割れるぅぅぅッ!!」

「……へっ。ざまあみろ」

須藤は、転がった自分のヘッドフォンを拾い上げ、埃を払った。

「そいつはな、『新宿(おれたち)の日常』っていう、ドブ泥で発酵させた猛毒のチーズだ。温室育ちのグルメ野郎には、ちっとばかしクセが強すぎたか?」

「お、おのれぇぇぇ……ッ!!」

三浦は床を這いずりながら、充血した目で須藤を睨みつけた。

まだだ。まだ倒れていない。

猛烈な吐き気と激痛に耐えながらも、彼の「食欲」という執念だけは消えていなかった。

「水……水をくれ……!! ソルベ(口直し)を……!!」

「往生際の悪い野郎だ」

須藤は呆れたように吐き捨てた。

その時、須藤のポケットの中で、何かがポゥッと淡く光った。

「……あ、そういや」

須藤は思い出したように、懐から白い箱を取り出した。

「そうだよ、巣鴨。これ、相沢から預かってきたんだよ。お前に渡すプレゼントだってよ」

須藤が箱を開けると、そこには眩いばかりの**『純白の手袋』**が鎮座していた。

(第7話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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