2027.03.15 北関東・特別少年矯正施設
『245番、如月 淳(きさらぎ・じゅん)。退所準備』
重厚な鉄扉が鈍い音を立てて開いた。
冷たいコンクリートの廊下へ歩み出たのは、一人の少年だった。
如月 淳。15歳。
仕立ての良い私服に着替えた彼は、見送りに並んだ教官たちに向かって、深く、美しい角度で一礼した。
「長らく大変お世話になりました。……過去の過ちを深く反省し、これからは両親を支え、真面目に生きていきます」
透き通るような声だった。
彼の瞳は、澄み切った湖のように清らかで、一点の曇りもなかった。
数ヶ月にわたる厳密な精神鑑定と行動評価の結果は、文句なしの「オールA」。
反抗的な態度は一度もなく、常に周囲を気遣い、規則を完璧に守り通した。
「奇跡的な更生」と、教官たちは涙ぐんで少年の肩を叩いた。
「よく頑張ったな、如月。今の君なら、間違いなく立派な大人になれる」
「はい。皆様の御指導のおかげです」
淳は、教官たちに向けて完璧な微笑みを浮かべた。
だが。
彼の胸の内側には、喜びも、達成感も、そして自分が犯したはずの「傷害事件」に対する罪悪感すらも、何一つ存在していなかった。
(……空っぽだ)
施設の門をくぐり、春の陽光を浴びても、彼の心は微塵も揺れなかった。
ただ、真っ白な部屋の中にポツンと立っているような、絶対的な虚無感。
「更生した」のではない。
怒りや衝動といった、人間を人間たらしめる「感情」そのものが、彼の中から根こそぎ抜け落ちているのだ。
だからこそ、彼は教官が求める「模範的な少年」のアルゴリズムを、完璧に実行(トレース)できたに過ぎない。
(……どうして僕は、何も感じないんだろう)
門の先には、黒い高級車が停まっていた。
車の横で、初老の男女がハンカチを握りしめて立っている。淳の両親だ。
「淳……! 淳っ!」
母親が泣き崩れながら駆け寄り、淳を力強く抱きしめた。
「ごめんなさいね……寂しい思いをさせて……よく、よく頑張ったわね……!」
父親も目頭を熱くして、淳の頭を不器用に撫でた。
淳は、両親の温もりを感じながら、自分の脳内で「最適な行動」を検索した。
そして、母親の背中にそっと手を回し、少しだけ声を震わせて言った。
「ただいま、お母さん、お父さん。……もう絶対に、悲しませないから」
完璧な息子。完璧な家族の再会。
淳の目から一滴の涙がこぼれ落ちたが、それは悲しいからでも嬉しいからでもなく、ただ「ここで泣くべきだ」という理性が流させた、生理的な水滴だった。
***
その夜。
都内の高級住宅街にある実家に戻った淳は、3年ぶりに自室のベッドに腰掛けていた。
綺麗に掃除された部屋。壁に飾られた表彰状。本棚に並んだ難関校の参考書。
どれを見ても、自分の部屋だという実感が湧かない。
他人の記憶のデータベースを閲覧しているような、奇妙な感覚。
「……僕は、何かの部品を落としてしまったんだ」
淳は呟き、ふと、学習机の一番下の引き出しに目を向けた。
なぜか、そこを開けなければいけないような気がした。
引き出しを開けると、奥底に鍵のかかった小さな日記帳が隠されていた。
鍵は、筆箱の裏にテープで貼り付けられていた。まるで「自分だけが見つけられるように」と計算されたかのように。
カチャリ。
日記を開くと、そこには間違いなく、淳自身の筆跡で書かれた文字が並んでいた。
日付は、彼が事件を起こし、警察に連行される前夜のものだった。
――『親愛なる未来の僕へ』
淳は息を呑み、そのページに視線を落とした。
『もし君がここに戻ってきて、この日記を読んでいるなら、君はきっと大切な記憶と感情を失っているだろう。
どうしてこんなことになったのか、不安に思っているはずだ。
でも安心して。君はちゃんと、誰も傷つけない「善人」になれたんだ。
……ただ、一つだけお願いがある。
あの**「古い黒いスマートフォン」**を探してほしい。
僕が逮捕される前に、お父さんとお母さんに「お守り代わりだ」と言って預けたはずだ。
あれには、**「僕たちが家族として一番幸せだった頃の動画と、僕の本当の心」**が入っている。
今の君は空っぽで苦しいだろう?
あれがないと、本当の意味で家族には戻れないし、君は君自身の心を取り戻せない。
だから、どんな手を使っても、必ず取り戻して。
それが、僕が君に残す、たった一つの希望だから』
淳は、そのページを食い入るように見つめた。
(……そうか。僕の「心」は、そのスマートフォンの中にあるんだ)
日記に書かれた切実な言葉。
それは、空っぽの彼にとって、唯一の行動指針となった。
これさえあれば、自分は人形のような虚無感から解放され、両親を心から愛せる「本当の息子」に戻れる。
淳は静かに日記を閉じ、引き出しの奥へ戻した。
彼の澄み切った瞳に、ひとすじの「目的」という名の光が宿った。
***
翌朝のダイニングテーブル。
豪勢な朝食が並ぶ中、淳はトーストにジャムを塗りながら、両親にさりげなく切り出した。
「お父さん、お母さん。……あのさ」
「ん? なんだい、淳」
父親がコーヒーカップを置き、優しく微笑む。
「僕がここを出る前に預けた、『古い黒いスマートフォン』……まだ、持っていてくれているかな。あれ、僕にとってすごく大事なお守りなんだ」
ピタリ、と。
両親の動きが止まった。
母親の顔から血の気が引き、トーストを持つ手が震え始めた。
父親は気まずそうに目を泳がせ、深く息を吐き出した。
「……淳。本当に、本当にすまない」
「え?」
「実は……先日、お前の誕生日の日に、お母さんと二人で品川のフレンチレストランに行ったんだ。お前の代わりに、そのスマホを席に置いて、お祝いをしようと……」
父親の言葉に、母親がポロポロと涙をこぼし始めた。
「ごめんなさい、淳……! 私が食事中に具合を悪くしてしまって、お父さんが慌てて私を連れ出したから……。その時、テーブルに……置き忘れてしまったの……!」
「すぐに店に電話したんだけど、誰も見ていない、忘れ物はないと言われて……本当に、すまない……!」
両親は、大切な息子のお守りを失くしてしまった罪悪感で、何度も頭を下げた。
淳は、テーブルの下で拳を握りしめた。
(無い……? 僕の「心」が、どこかの店に……?)
だが、淳の顔に怒りは浮かばなかった。
怒る機能すら、今の彼にはないからだ。
彼は立ち上がり、泣いている母親の肩を優しく抱いた。
「大丈夫だよ、お母さん。泣かないで。お母さんの体調が一番大事なんだから」
「淳……ごめんなさい……ごめんなさい……」
淳は、母親の背中を撫でながら、父親に向かって完璧な笑顔を向けた。
「お父さん。そのレストランの名前、教えてもらえるかな? 僕、お母さんが元気になったお礼を言いに行きたいんだ。ついでに、もう一度僕からも探してもらえないか聞いてみるよ」
「あ、ああ……。『Le Miroir(ル・ミロワール)』という、品川の駅前の店だ……」
「Le Miroir」
淳は、その名前を脳内に深く刻み込んだ。
「ありがとう、お父さん。行ってくるね」
淳は爽やかな笑顔でダイニングを出た。
玄関で靴を履き、外へ出る。
春の少し冷たい風が、彼の前髪を揺らした。
彼の歩みには、一切の迷いがなかった。
心を持たない、純白の模範囚。
彼を突き動かしているのは、過去の自分が日記に書き残した「心を取り戻す」という、ただ一つの目的だけだった。
品川のレストランのシェフ。
彼が自分の「心」を隠し持っているのなら、ただ、返してもらうだけだ。
淳は、駅へと向かう雑踏の中に、音もなく溶け込んでいった。
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第3話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
