連載小説『感情の忘れ物7 上野・結城編 ~終着駅の重さ~』第3話:アメ横の錆びたオイルライター

ガード下に響き渡る、ひっきりなしに通過する電車の轟音。威勢の良い客引きの声、魚介類の潮の匂い、そしてスパイスの刺激的な香りが入り混じるその場所――上野・アメ横商店街は、平日であっても異様な熱気と活気に満ちていた。

その喧騒の中を、周囲から少し浮いた長身の男が歩いていた。品川の高級フレンチレストラン『Le Miroir』の総料理長、三浦省吾だ。完璧に仕立てられたチェスターコートを羽織り、銀縁眼鏡の奥の鋭い眼光で、ひしめき合う店舗の店先を品定めしている。

「……なるほど。このカルダモンの香りは悪くない」

三浦は、路地裏にある小さな香辛料専門店の前で足を止め、掌に載せたスパイスの匂いを嗅いだ。彼はかつて、他人の「感情」を極上の料理として食す「感情の美食家Emotion Epicure」だった。だが、数ヶ月前に吉祥寺の管理者・相沢の「白手袋」によって強烈な浄化を受けて以来、彼の中からそのような邪悪な飢餓感は綺麗に消え去っている。

今の彼は、純粋に料理の腕と天然の食材だけで勝負する、真の料理人として再出発を果たしていた。春の新作メニューの構想を練るため、このアメ横の雑多なエネルギーの中にインスピレーションを求めてやって来たのだ。

「よし、これを仕入れよう。……ルセット(レシピ)の構成を少し書き直さなければな」

三浦がスパイスの鮮烈な香りに意識を集中させていた、その時だった。背後から大きな発泡スチロールの箱を抱えて足早に通り抜けようとした魚屋の若い衆が、ドン、と三浦の肩にぶつかった。

「おっと、すいませんね!」

「……気をつけたまえ」

三浦は苦い顔をして体勢を立て直したが、その強い衝撃で、ふわりと羽織っていたコートの浅い内ポケットから、愛用の黒い革張りの手帳が滑り落ちた。しかし、周囲の怒号のような客引きの声と、スパイスの強烈な香りに五感を奪われていた彼は、足元の濡れたアスファルトにそれが落下した微かな音に、気づくことができなかった。

***

その日の午後、上野駅地下の『遺失物取扱センター』。

管理人の結城は、カウンター越しに交番の若い警察官から届け物を受け取っていた。

「アメ横の路地裏、ガード下の隙間に落ちてたそうです。清掃員のおばちゃんが見つけて、交番に持ってきましてね」

警官が差し出したのは、泥にまみれた古いオイルライターだった。

「ご苦労様です。……ずいぶんと年代物ですね」

結城は老眼鏡を押し上げ、それを見つめた。くすんだ銀色。表面には、かすれてほとんど読めなくなっているが、米軍の部隊章らしき刻印がある。いわゆる、軍の払い下げ品のジッポーライターだ。

警官が帰った後、結城は静寂の戻ったセンターで、そのライターに向き合った。引き出しから柔らかい布を取り出し、こびりついた数十年前の泥と埃をゆっくりと拭き取っていく。

そして、結城は深呼吸をし、両手でその錆びた金属の塊を包み込んだ。

『感情の重量計(スケール)』

ズシィィィィン……ッ!!

「……っ!!」

結城の太い腕が、カウンターの天板にめり込むかと思うほどの、すさまじい重力がのしかかった。顔の皺しわが深く刻まれ、首筋に太い血管が浮かび上がる。

(……なんと、重く、そして泥臭い……)

それは、これまでに量ってきたどんな感情とも異質だった。先日、青森からやってきた少年の切符から量り取った「希望」が鉄アレイのような硬い重さだとしたら、これは「底なし沼のヘドロ」を両腕で抱え上げているような、ずっしりとした、逃れようのない粘着質な重さだった。

結城の脳裏に、この上野という土地が持つ、最も暗く、そして最も熱かった時代の記憶が流れ込んでくる。

***

昭和二十年代。終戦直後の上野。見渡す限りの焼け野原の中、ガード下にバラックが建ち並び、そこは「ヤミ市」と呼ばれていた。

『アメヤ横丁』。

米軍の放出物資や、どこからか流れてきた統制品が、法外な値段で飛ぶように売れていく。生きるか死ぬかの瀬戸際。人々は飢えを満たすため、手段を選ばなかった。

このライターの持ち主も、その一人だった。復員兵の若い男。彼は生き延びるため、ヤミ市で粗悪な品を誤魔化して売り、時には他人を騙し、蹴落として日銭を稼いでいた。

『すまねえ。……でも、俺は生きたいんだ』

騙した相手が路地裏で飢えに苦しむ姿を横目に、男は懐のオイルライターを強く握りしめた。そこにあったのは、途方もない『罪悪感』。自分の手が汚れていくことへの強烈な嫌悪。

だが、それを上回るほどの、血を吐くような『生への執着』が、ライターの金属に焼き付いていた。

『俺は死なねえ。絶対に、この焼け野原で生き抜いてやる……!』

誰かを踏み台にしてでも明日を見る。そのドロドロとした欲望と、消えることのない罪の意識が混ざり合い、数十年の時を経て、この重い「化石」となったのだ。

***

「……ふぅっ」

結城は静かに目を開け、ライターから手を離した。途端に、腕を縛り付けていたヘドロのような重圧が消え去る。

結城は、布で拭き上げたライターを見つめた。

「……あなたのその執着がなければ、綺麗事では生きられなかった時代の、その重苦しい土台の上に建っている現在の平和で賑やかなアメ横は、生まれなかったのかもしれませんね」

結城は、その歴史の重みに深い敬意を払い、ライターを小さなアクリルケースに収めた。

『拾得日時:令和9年5月23日』
『拾得場所:アメ横 ガード下 路地裏』
『品名:オイルライター(米軍払い下げ品)』
『感情の成分:生き抜くための罪悪感、および泥のような生への執着』

台帳に万年筆で書き込んでいると、センターのドアが開いた。

「失礼します。……黒い革張りの手帳が、届いていないでしょうか」

入ってきたのは、仕立ての良いコートを着た長身の男――三浦省吾だった。彼は焦った様子で、額に大粒の汗を浮かべている。

「アメ横で買い出し中に落としたようで。私にとって、命の次に大事なものなのです」

結城は顔を上げ、穏やかに頷いた。

「ええ、届いておりますよ。先ほど親切な魚屋さんが、拾って届けてくれました」

結城はカウンターの下から、黒い革の手帳を取り出した。そして、それを三浦に差し出す際、結城は手帳を片手で乱暴に扱うことはせず、まるで壊れ物を扱うように、両手でそっと持ち上げた。

「……ずいぶんと、『重い』手帳ですね」

結城は、三浦の目を真っ直ぐに見据えて言った。

「紙の重さではありません。この中に書かれているものに向けた、あなたの『情熱』と『誇り』の重さです。……素晴らしい重量だ。どうか、これからも大切になさってください」

三浦は、ハッと息を呑んだ。一般の駅員なら、ただの事務手続きで終わるはずだ。だが、目の前の老人は、手帳に込められた三浦の「料理への執念」を、見事に量り取ってみせたのだ。

(……この老人は、ただの管理人ではない)

三浦が手帳を受け取ろうとした、その時だった。三浦の『視覚』と『嗅覚』が、結城の背後にあるカウンターの上の「ある物」に強烈に反応した。

「……ッ!」

三浦の顔が強張る。

彼には、アクリルケースに収められたあの「錆びたオイルライター」から、ドス黒いタールのような感情が溢れ出し、鉄錆と血の混じったような凄惨な匂いを放っているのがハッキリと分かった。

「……凄まじい匂いですね。それは」

三浦は、思わず口に出していた。

結城は少しだけ目を細め、三浦を見た。

「……あなたには、匂いが分かるのですね。品川のシェフ殿」

三浦は少し驚いたが、すぐに苦笑して一礼した。

「……ええ。お恥ずかしながら、少し前まで、私はそういった他人の強い感情を『味わう』ことで料理を作っていた、愚かな男でしたから。……吉祥寺の相沢さんという方に、こってりと絞られましてね。今はもう、そのようなゲテモノ食いは卒業しました」

結城は、三浦が発した『相沢』という名前に、フッと口元を綻ばせた。

「吉祥寺の彼ですか。なるほど。……では、あなたにはこれが、酷くドロドロとした醜いものに見えるのでしょうね」

結城は、ライターの入ったケースを撫でた。

「ええ。……強烈なエゴイズムと、罪悪感。私なら、悪酔いして吐き出してしまうほどの、重すぎる劇薬です」

三浦は顔をしかめて答えた。

「確かに、重い。……私がこれまで量ってきた中でも、一番重いかもしれません」

結城は静かに頷いた。

「ですが、私はこれを『醜い』とは思わない。彼らは、今日を生き延びるために、他人の分まで這いつくばって泥水をすすった。……その泥の重さが、私たちの頭上にあるアメ横の活気の、一番の隠し味になっているのですよ。シェフ殿」

三浦の胸の奥で、何かが静かに響いた。他人の感情のドロドロとした部分を、否定するでもなく、ただ「そこにある歴史の重さ」として、両手でしっかりと受け止める。

それは、四十年という途方もない歳月を、この地下の薄暗い部屋で「他人の人生」と向き合い続けてきた職人だけが持つ、圧倒的な凄みだった。

三浦は、自分の手にある手帳を強く握りしめた。料理人として、まだまだ自分は青い。目の前の老人のように、人間の業ごうの深さを丸ごと受け入れるような器がなければ、本当に人の魂を震わせる料理は作れないのかもしれない。

三浦は、コートの襟を正し、結城に向かって、レストランの客に対する最上級の礼と同じ、深いお辞儀をした。

「……恐れ入りました。上野の大先輩。あなたのその『両手』の仕事に、同じ職人として深い敬意を表します」

「大袈裟ですよ。私はただの、定年間近の老いぼれです」

結城は、照れ隠しのように丸眼鏡を押し上げた。

「いいえ。……おかげで、最高の新作のルセット(レシピ)が完成しそうです。……泥臭く、しかし力強く命を繋ぐ、ジビエのロースト。……完成した暁には、ぜひ上野までお届けにあがりますよ」

三浦は晴れやかな顔でそう告げると、踵きびすを返し、センターを後にした。彼がドアを出ていく時の足取りは、来た時よりも遥かに軽やかで、確信に満ちていた。

***

センターに、再び静寂が戻った。カチ、カチ、カチ……。

柱時計の音が響く中、結城はライターの入ったケースを手に取り、保管庫の奥へと向かった。

巨大な木製の棚。結城は、その一角にライターを静かに置いた。

「もう、誰も騙さなくていい。もう、飢えることもない」

結城は、数十年前の若き復員兵の魂に向かって、優しく語りかけた。

「あなたの生きた証は、私たちの頭上にあるアメ横の街で、今も騒がしく息づいていますよ。……ゆっくり、お休みなさい」

ライターの表面の錆が、一瞬だけ、鈍く温かい光を反射したように見えた。

結城は深く一礼し、保管庫の扉を閉めた。上野の地下には、今日もまた一つ、重く、そして尊い歴史の欠片が、静かに眠りについた。

(第4話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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