連載小説『感情の忘れ物7 上野・結城編 ~終着駅の重さ~』第8話:老管理人の忘れ物(前編)

「……さて」

定年退職まで、あと三日。上野駅地下の『遺失物取扱センター』は、今日の業務を終え、深い静寂に包まれていた。結城は、入り口の磨りガラスのドアに「本日の業務は終了しました」という札を掛け、鍵を下ろした。

センターの中には、カチ、カチ、という古い柱時計の音だけが響いている。

結城は、長年座り続けた革張りの椅子を丁寧に拭き上げ、綺麗に整頓されたデスクの上を見つめた。引き継ぎの書類は全て完成している。後任の若い担当者への説明も済んだ。この四十年間、他人の落とした「人生の重さ」を量り、記録し、供養し続けてきた彼の手は、今や太く、固く、そして何よりも強い。

結城は、ふと自分の両手を顔の前にかざした。

青森からやってきた少年の、鉄アレイのような希望。
戦時中の飼育員の、鉛のような悲哀。
ヤミ市を生き抜いた男の、ヘドロのような執着。
出稼ぎの父親の、重い決意。
そして、昨日触れたばかりの、名もなき少年の羽毛のように軽やかな好奇心。

それらを受け止めてきたこの両手なら、もう、耐えられるかもしれない。

結城は静かに息を吐き、センターの奥――広大な保管庫へと歩みを進めた。天井までそびえ立つ木製の棚。そこには、数え切れないほどの「時効を迎えた感情たち」が眠っている。結城は、その棚の列を通り過ぎ、一番奥の、普段は決して足を踏み入れることのない薄暗い区画へと向かった。

そこには、四十年間、ただの一度も触れられることのなかった「一つの木箱」が、ひっそりと置かれている。

結城の足取りが、僅かに重くなった。近づくにつれ、胸の奥が冷たく締め付けられる。それは、恐怖だった。これまで無数の重圧に耐えてきた老管理人が、たった一つの小さな木箱を前にして、足がすくんでいるのだ。

「……逃げるわけには、いきませんからね」

結城は、木箱の前に立ち止まった。表面にはうっすらと埃が積もっている。結城はポケットから清潔なハンカチを取り出し、その埃をゆっくりと、丁寧に拭き取った。

この木箱の中に入っているのは、誰の忘れ物でもない。他ならぬ、結城自身の「四十年前の忘れ物」だ。

結城の脳裏に、封印していたはずの遠い過去の情景が、鮮明な色彩を伴って蘇ってきた。

***

昭和の終わり。

当時二十五歳だった結城は、鉄道会社の本社で、若きエリート候補として期待を集めていた。海外事業部に所属し、ヨーロッパでの新しい鉄道プロジェクトのメンバーに抜擢されたのだ。それは、結城にとって幼い頃からの夢だった。『世界を繋ぐ、巨大な鉄道網を作る』その夢の第一歩として、数ヶ月後にはパリへの赴任が内定していた。

新婚だった妻の小百合(さゆり)も、結城の夢を心から応援してくれていた。
『あなたなら、絶対に素晴らしい仕事ができるわ。私もフランス語、勉強しなくちゃね』
そう言って、二人は希望に満ちた未来を語り合っていた。

だが、運命は残酷だった。渡仏を目前に控えたある日、小百合が突然の病に倒れたのだ。進行性の難病。命に別状はなかったが、長期間の入院と、退院後も絶え間ない看病が必要になる体となってしまった。

医師からの宣告を受けた日、結城は病院の廊下で立ち尽くした。頭の中が真っ白になった。パリへの赴任は、当然ながら辞退せざるを得ない。それどころか、激務である海外事業部での仕事も続けられないだろう。

病室のベッドで、点滴に繋がれた小百合は、泣きながら結城に謝り続けた。
『ごめんなさい……私のせいで、あなたの夢が……』

結城は、妻の手を強く握りしめ、必死に笑顔を作って言った。

『気にするな。仕事なんてどうでもいい。俺にとっては、お前が一番大切なんだ。お前が元気になってくれるなら、夢なんて安いもんだよ』

その言葉に嘘はなかった。結城は小百合を心から愛していた。彼女を失うくらいなら、どんなキャリアも捨てる覚悟があった。

結城は本社に異動願いを出し、転勤がなく、定時で帰って妻の看病ができる職場を希望した。そうして配属されたのが、この『上野駅 遺失物取扱センター』だったのだ。世界を繋ぐ最前線から、地下の薄暗い部屋で他人の落とし物を管理する裏方へ。それは、あまりにも極端な都落ちだった。

だが、結城は誰にも愚痴をこぼさず、献身的に小百合を支え、センターでの仕事に真面目に取り組んだ。周囲からは「妻想いの立派な夫」と賞賛された。

しかし。

結城の心の中には、どうしても、どうしても消し去ることのできない「真っ黒な感情」が生まれてしまっていたのだ。

『俺は、本当はあんな仕事がしたかったんじゃない』

『どうして俺だけが、こんな地下室で、他人のゴミを数えて一生を終えなければならないんだ』

同僚たちが海外で活躍するニュースを聞くたびに。テレビでパリの美しい街並みが映るたびに。結城の胸の奥で、ドロドロとした泥のような感情が渦巻いた。

そして、最も恐ろしかったのは。病床で「ごめんなさい」と泣く妻に対して、心のほんの一瞬だけ、『お前のせいで、俺の人生は狂ったんだ』という、おぞましい『恨み』を抱いてしまったことだ。

愛しているはずなのに、憎んでしまう。自分の選んだ道のはずなのに、猛烈に後悔している。

そんな醜い自分自身を、結城は許すことができなかった。だから彼は、その強烈な「後悔」と「妻への恨み」を自らの心から無理やり切り離し、この木箱の中に封じ込めた。

『これがある限り、私は小百合を真っ直ぐに愛せない。……だから、これは無かったことにする』

感情を切り離した結城は、ただの「穏やかで優しい夫」となり、そして他人の感情の重さを量る「優秀な管理人」として完成した。

それから数年後、小百合は静かにこの世を去った。最期まで、結城は彼女に優しい笑顔だけを向け続けた。だが、小百合の葬儀の日、結城は一滴の涙も流せなかった。自分の最も深く、ドロドロとした部分をこの木箱に捨ててしまった彼には、悲しみのどん底に落ちるだけの「心の重さ」すら残っていなかったのだ。

***

「……四十年間、君をここに一人で閉じ込めてしまった」

結城は、木箱に向かって静かに語りかけた。自分の醜さを直視するのが怖くて、ずっと逃げていた。他人の重い人生を受け止めることで、「自分は立派な人間だ」と自己正当化していただけなのかもしれない。

だが、もうすぐこの駅を去る。この木箱を、ここに残していくわけにはいかない。もし後任の者がこれに触れれば、その重圧に押し潰されてしまうだろう。

「……私の感情は、私が終わらせなければ」

結城は深呼吸をし、両手をゆっくりと木箱の両端に添えた。

『感情の重量計(スケール)』。

四十年の時を経て、結城自身の感情が、彼の手のひらへと流れ込んでくる。

――ズガァァァァァァンッッ!!!!

「……ッ!! あ、ぐぁッ……!!」

結城の口から、凄まじい呻き声が漏れた。太い両腕の筋肉が、限界まで悲鳴を上げて軋む。膝が震え、コンクリートの床にドスンと両膝をついた。

(……重い……! なんて、重いんだ……!)

それは、これまで彼が量ってきたどんな他人の感情とも比較にならない、圧倒的で、暴力的で、途方もない質量だった。

鉄アレイなどという生易しいものではない。巨大な岩盤を、両手だけで支えさせられているような絶望的な重力。

『悔しい! パリに行きたかった!』

『どうして俺だけが! 俺の人生を返せ!』

『小百合……お前のせいで! お前さえ病気にならなければ!』

木箱の底から、二十五歳の結城の、生々しい魂の絶叫が直接脳内に響き渡る。

「がはっ……!」

結城の顔面から脂汗が吹き出し、血管が千切れそうに浮き上がる。

醜い。あまりにも醜い。自分は、小百合に対して、こんなにも恐ろしい恨みを抱いていたのか。自分を犠牲にした「悲劇のヒーロー」を気取りながら、その裏では、彼女の存在を呪っていたのだ。

四十年間、蓋をして熟成されてしまったその後悔と憎悪は、結城の心を内側から引き裂こうとしていた。腕の骨がミシミシと鳴る。このままでは、重圧に耐えきれず、腕が、いや、結城の精神そのものが押し潰されてしまう。

(……やはり、私には持てないのか。……自分の罪の重さは、私自身を壊してしまうのか)

結城の意識が遠のきかけ、木箱から手を離そうとした、その時だった。

「……ん?」

木箱の蓋の隙間から、何かがはみ出しているのが見えた。それは、結城が封じ込めた「黒い泥」のような感情の塊の下敷きになっていた。

古い、白い封筒。

(……なんだ、あれは? 私はあんなものを入れた覚えはないぞ)

結城は、重圧に耐えながらも、震える指先でその封筒を引っ張り出した。封筒の表には、色褪せたインクで、見覚えのある丸みを帯びた字が書かれていた。

『愛する、あなたへ』

「小百合の……字?」

結城は息を呑んだ。妻が死ぬ前に書いた手紙。だが、なぜそれが、結城しか開けたことのない、しかも「妻への恨み」を封じ込めたはずのこの木箱の底に入っているのか。

結城の手の中で、圧倒的な「後悔の重さ」が、ほんの少しだけ揺らいだ。封筒からは、ドロドロとした黒い重力とは全く違う、静かで、しかし確かな「別の重さ」が伝わってくるのを感じた。

「小百合……君は、知っていたのか……?」

結城は、押し潰されそうな重圧に耐えながら、震える手でその封筒の封を切った。地下の保管庫で、四十年の時を超えた妻からの返信が、今、開かれようとしていた。

(第9話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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