品川駅前にそびえ立つ超高層ビルの最上階。
高級フレンチレストラン『Le Miroir』の厨房で、総料理長・三浦省吾は完璧な手さばきで肉をソテーしていた。
かつての彼は、客が置き忘れていく「嫉妬」や「野心」といった感情を極上の食材として食らう怪物だった。しかし、吉祥寺の管理人・相沢に真っ白な布手袋を喉の奥深くまでねじ込まれ、己の我欲もろとも強制浄化されて以来、彼は真っ当な料理人として精進を続けている。
だが、時には誘惑に揺れる。魅惑的な客から漂うドロドロとした欲望の香りに、つい喉が鳴る。その瞬間、 「ひぎぃッ!?」 三浦の胃の腑がキュッと縮み上がり、滝のような冷や汗が吹き出した。脳裏にフラッシュバックするのは、あの恐ろしい白手袋の強制浄化の恐怖だ。
三浦はブルブルと首を千切れるほど振り、慌てて眼鏡をキリッと押し上げて冷静さを取り戻した。
そんな彼の心には、ずっと一つの心残りがあった。かつて、純粋な感情を奪おうとして多大な恐怖と迷惑をかけてしまった、巣鴨の管理人・峰岸理沙への謝罪だ。
「真っ当な料理人となった今こそ、彼女に直接お詫びをしなければならない」
三浦は謝罪の手土産として、伊勢海老のテリーヌや鴨肉のローストなど、自慢の最高級フレンチを美しく詰め込んだ特製のフルコース重箱を準備した。それを大切に抱え、彼は巣鴨へ向かうべく山手線に乗り込んだ。
***
同じ頃、巣鴨駅の地下に佇む遺失物取扱センターでは、お茶の優しい香りが漂っていた。
「じゃあ、僕は帰ります。理沙さん」
「うん、淳君ありがとう! 相沢さんによろしく伝えてね」
吉祥寺から管理台帳を届けるおつかいを無事に終えた如月淳は、理沙に手を振ってセンターを出た。せっかく来たのだからと、淳は帰りしなに地蔵通り商店街を観光していくことにした。
赤パンツの店や名物の塩大福の甘い匂いに包まれて歩いていると、突如、彼の『視覚』が異常を感知した。
(……な、何だ、この凄まじいプレッシャーは!?)
駅の方向から、ギラギラとした巨大な「黄金色のオーラ」が近づいてくる
それは、三浦の持つ能力「感情の美食家」の強力なオーラだった。
抑制の効かないその強烈な黄金の気配が、周囲に漏れ出てしまっていたのだ。淳と三浦が出会ったのは彼が白手袋で一時的に強制浄化(リセット)された直後――つまり彼が真っ白に虚脱していた瞬間だったため、淳はこの本来の黄金のオーラを知らなかった。
(こんな禍々しいほど強い光……絶対に、とてつもない邪悪な感情を持った化け物だ! 狙いは理沙さんだ!)
「理沙さんが危ない!!」
淳は思わず大声で叫び、巣鴨駅の方向へと全力で走り出した。
***
淳のその必死の叫びは、賑やかな地蔵通り商店街の真ん中で響き渡っていた。
「……え? 今、理沙ちゃんが危ないって言わなかったかい?」
「なんだって! ワシたちのアイドルの理沙ちゃんに、何か危機が迫ってるのか!?」
彼女の危機とあっては黙っていられない。
「おい!! てめえら、理沙ちゃんを助けに行くぞ!!」
「ウチらの可愛い理沙ちゃんに指一本触れさせやしないよ!」
一瞬にして、商店街はお年寄りたちの戦場となった。彼らは頭に闘魂の鉢巻を巻き、露店のホウキや頑丈な「さお竹」を武器代わりに握りしめた。そうして、数え切れないほどの『巣鴨親衛隊』は、駅へ向かって怒濤の勢いで結集し始めた。
***
その頃、巣鴨の遺失物取扱センターの中は、異様なほど平和だった。
「えっ、三浦さん! わざわざ品川からお詫びに来てくださったんですか?」
「ええ。あの時は本当に、私の醜い我欲のせいで申し訳ありませんでした」
三浦は深々と頭を下げ、テーブルの上に豪華なフレンチの重箱を広げた。
「お詫びと言ってはなんですが、私の全力を尽くした料理です。受け取ってください」
「わあ、美味しそう! じゃあ、あとでおじいちゃんやおばあちゃんたちと、みんなで食べますね!」
「お会いできて、謝罪できて光栄でした」
三浦が穏やかに微笑む。その向こうでは、一足先に戻って事情をすべて把握した淳が、あまりの勘違いに顔を真っ赤にしながら、パイプ椅子に座って気まずそうにお茶を飲んでいた。
(完全に僕の勘違いだ……。理沙さんが無事で本当によかったけど、あはは……)
淳が冷や汗を拭いながら胸を撫でおろした、その時だった。
「理沙ちゃんを助けろーーーっ!!!」
「悪者はどこにいるんだぁぁぁッ!!!」
凄まじい叫び声とともにガラガラと引き戸が開いて、鉢巻を巻いた『巣鴨親衛隊』が雪崩れ込んできた。
「え! いったいどうしたんですか!?」
突然の大騒ぎに理沙が目を丸くする。お年寄りたちの怒れる視線は、瞬時に豪華な重箱の前に立つ、見慣れないキザな男に集中した。
「あ! ここに怪しい男がいるぞ!! とっちめろ!!」
「ひ、 ひえええっ!? 私はただの料理人で――ひぎゃあッ!?」
容赦なく振り下ろされるホウキと、頑丈なさお竹の乱打。
「待ってください、皆さん! 誤解なんです!」
理沙と淳が必死に止めに入るが、愛する理沙を守るためのお年寄りたちの大暴走はもう誰にも止められない。
「痛い! 私はただ、謝りたくて美味しい料理を――あ痛ァァァッ!!」
三浦はボロボロになりながらも必死に包囲網をかいくぐり、命からがら巣鴨駅の改札へと逃げ出していった。
「ふん! 巣鴨の平和は、私たちが守り抜いたよ!」
「理沙ちゃん、もう大丈夫だからね!」
勝ち誇るお年寄りたちに囲まれながら、理沙は力なく笑うしかなかった。
その横で、自分の不用意な叫びが招いた、あまりにもとんでもない大騒動を見つめながら、淳は静かに冷や汗を流して、すすりかけのお茶をそっと机に置くのだった。
(スピンオフ作品No.02 -完-)

