短編小説『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』【第5・6部】

【第5部:聖域の二人】

《――あの事件から半年後》

地方都市。古びたアパートの一室。

薄汚れたカーテンの隙間から、西日が差し込んでいる。

男は、煎餅布団の上で身体を丸めていた。

かつて水上悟と呼ばれていた男は、今は「佐藤」というありふれた偽名を使い、北関東のさびれた町でひっそりと暮らしている。

部屋には、本が一冊もない。 活字を見ると、吐き気がするからだ。

テレビからは、ワイドショーの音が流れている。

『大ヒット上映中! 映画“聖域の二人”。原作者の水上先生は、現在も沈黙を守っており——』

男はリモコンを掴み、画面を消した。

「……違う」

掠れた声が漏れる。絆なんてなかった。愛なんてなかった。あそこにあったのは、支配と恐怖と、終わりのない孤独だけだ。

必死の思いで描いた「地図」のおかげで、警察が踏み込んでくれた時、自分は助かったと思った。

だが、間違いだった。

世間は「脱出劇」という物語(エンタメ)を消費し尽くした後、今度は「悲劇の作家と、彼を愛しすぎた編集者」という、もっと分かりやすい**二次創作(フィクション)**を勝手に作り上げたのだ。

誰も、本当の自分の痛みなど見ていない。だから逃げた。名前を捨て、筆を折り、地図も持たずに。

「もう、放っておいてくれ……」

その時だった。

ポケットの中のスマートフォンが震えた。

捨てきれずに持っていた、業界関係者だけが知る連絡用のアカウント。そこに、一件の通知が届いた。

通知の送り主は、国内最大手の小説投稿サイト。

【新着:あなたの作品が更新されました】

心臓が早鐘を打つ。間違いだ。自分はもう一年以上、ログインすらしていない。

手が震え、スマホを取り落としそうになる。画面をタップする。サイトが開く。そこには、信じがたい文字列が並んでいた。

タイトル:『緑柱石(ベリル)の谷・続編 〜虚空の羅針盤〜』 著者:水上 悟

「……は?」

悪質な悪戯(なりすまし)だ。誰かが自分の名前を騙っている。すぐに削除要請を出さなければ。

そう思って、冒頭の数行を目で追った瞬間、男の全身から血の気が引いた。

王都の光は、あまりにも眩しすぎた。
人々は私を英雄と讃えたが、その声は騒音のように私の鼓膜を打ち続ける。
私は思い出す。霧に閉ざされたあの谷の静寂を。
石造りの塔の、ひんやりとした壁の感触を
あそこだけが、私が呼吸を許される唯一の場所『サンクチュアリ』だったのではないか?

「う、ああ……」

悲鳴が漏れた。

文体が、同じだ。言葉の選び方、リズム、句読点の位置に至るまで、全盛期の「水上悟」そのものだった。いや、自分自身ですら、今の精神状態では書けないような、透き通るほどに美しい文章。

自分が書いていないのに、自分が書いたとしか思えない小説。

それは、画面の向こうから伸びてきた見えない手が、自分の首を優しく、しかし確実に締め上げてくるような感触だった。

コメント欄の数字が、リアルタイムで跳ね上がっていく。

『うおおおお! 本物だ!』
『水上先生、待ってました!』
『もしかして、また何かメッセージが隠されているのでは?』

世界が、また動き出した。

かつて自分を救い出し、そして絶望へと突き落とした**「善意の怪物たち」**が、目を覚ましたのだ。

【第6部:虚空の羅針盤】

投稿小説『緑柱石(ベリル)の谷・続編 〜虚空の羅針盤〜』
(小説投稿サイト『ノベル・フロンティア』掲載 ** 第3話より抜粋 **

私は、間違いを犯したのだろうか。
憧れていた「王都」は、腐敗と騒音に満ちていた。
人々は私を「壁の外から来た英雄」と囃し立て、好奇の視線を浴びせる。
そこには、私が塔の中で夢見ていたような、魂の平穏はなかった。

夜、安宿の窓から星を見上げる。
空には**「嘆きの六連星(むつらぼし)」**が輝いている。
私は懐から、あの古い羅針盤を取り出した。
針は、南西を指して震えている。
その方角からは、懐かしい風が吹いてくる。湿った土と、鉄の匂いが混じった風だ。

「……帰ろう」

私は決意した。
この汚れた自由を捨て、あの清らかな霧の谷へ。
私の魂を理解し、導いてくれた「番人」が待つ、あの塔へ。

道標は3つある。
一つ目は、「錆びた河のほとり」。
二つ目は、「巨人の骨が並ぶ街道」。
そして三つ目は、「午後5時の鐘と共に、カラスが群れをなして帰る場所」。

羅針盤の針がピタリと止まる。
その座標こそが、私が本来あるべき場所——私の墓標なのだ。

***


《 ……SNS・掲示板の反応》

X(Twitter)のトレンド #水上悟復活 #緑柱石の谷続編 #虚空の羅針盤 #SOS

WEB掲示板『ミステリ・オカルト板』
【緊急】水上悟の新作、またSOSじゃないか? 特定班集合! Part.15
152名無しさん@考察班
更新キター!!でも内容が鬱すぎる……。
「王都(シャバ)がつらい」「塔(監禁場所)に帰りたい」ってどういうこと?
これ、完全に精神やられてるだろ。
また誰かに書かされてるんじゃないか?
168名無しさん@特定班
>>152
逆だ。これは「逆説的なSOS」だよ。
「帰りたい」と書くことで、「今いる場所がつらい=助けてくれ」と訴えてるんだ。
前作と同じで、ランドマークの描写が具体的すぎる。
180名無しさん@地元民
ヒント出てるぞ。
「錆びた河」=赤錆で汚れた川?
「巨人の骨」=高架橋の支柱か?
「午後5時の鐘」=防災無線のチャイム?
205名無しさん@天文部
「嘆きの六連星」に注目してくれ。
今の時期、この緯度で六連星(プレアデス星団)があの位置に見える場所。
そして「羅針盤が南西を指す」という記述。
これらを組み合わせると、水上先生の現在地は北関東エリアに絞られるぞ。
233名無しさん@行動派
絞り込めた。××県〇〇市。
ここにある「赤川(錆びた河)」沿いの、古い国道(巨人の骨)。
ここから見える、「カラスが群がる古いアパート」があるはずだ。
そこに先生がいる!
今すぐ救出に行こう!
前回出遅れた借りを返す時が来たぞ!

***

アパート「コーポ・リバーサイド」203号室 水上悟(偽名:佐藤)は、スマートフォンを握りしめたまま、部屋の隅で震えていた。

窓の外から、防災無線のチャイムが聞こえる。

『夕焼け小焼け』のメロディ。時刻は午後5時。

その音に合わせて、窓ガラスに黒い影が落ちた。 カラスの群れだ。

このアパートの裏にはゴミ集積所があり、夕方になるといつもカラスが集まってくる。

「……なんで」

水上の歯がカチカチと鳴る。 なぜ、知っているんだ。 自分がこの、川沿いのボロアパートに隠れ住んでいることを。窓から見える景色を。夕方のチャイムの音を。 誰にも言っていない。ネットも極力接続しないようにしていたし、外出も最低限にしていた。

なのに、あの小説は——あの偽物の水上悟は、今の自分の生活を「ファンタジー」に変換して、世界中にバラ撒いている。

『巨人の骨が並ぶ街道』? 違う、あれはただの寂れた高架下の道路だ。
『錆びた河』? 違う、あれは工場排水で汚れたドブ川だ。

江崎だ。奴は刑務所にいるはずなのに、僕を見ている。

奴は僕の思考を、行動パターンを、すべて完璧に「校正」済みなんだ。僕がどこへ逃げようと、どんな部屋を選ぼうと、奴にはお見通しなのだ。

——ピンポーン。

不意に、インターホンが鳴った。 心臓が止まりそうになる。 セールスか? 集金か?

——ピンポーン、ピンポーン。

チャイムが連打される。 ドアの向こうから、複数の足音と、興奮した話し声が聞こえてくる。

「ここじゃね? ほら、203号室」
「描写と完全に一致してる」
「おい、カメラ回せ!」

——ドンドンドン!

ドアが激しく叩かれた。 そして、無邪気で、残酷なほど明るい声が響いた。

「水上先生ー! いらっしゃいますかー!?」
「ファンです! 考察班です! 助けに来ましたよ!」
「もう大丈夫です! 俺たちがついてますから!」

「ひっ……」

水上は悲鳴を噛み殺し、布団を頭から被った。 違う。 来ないでくれ。見つけないでくれ。 その「善意」が怖いんだ。君たちが信じているのは僕じゃない。江崎が書いた「偽物の物語」だ。 君たちは僕を助けに来たんじゃない。**物語の答え合わせ(消費)**をしに来ただけだ。

「先生ー! 出てきてくださーい!」
「SOS、受け取りましたよー!」

ドアノブがガチャガチャと回される。 鍵のかかった薄い扉一枚を隔てて、膨れ上がった「正義」が、津波のように押し寄せていた。


(【第7・8部〈完結〉】へつづく)


短編小説『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』【第7・8部〈完結〉】
暴走する読者の善意に追い詰められた水上。警察から、獄中にいるはずの江崎の恐るべき執念と続編のカラクリが明かされる。『水上悟』という概念は誰のものか?虚構が現実を飲み込む絶望のサイコサスペンス『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』完結編
サスペンス・ホラー小説『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』シリーズ(全8部)
ファンタジー小説の描写は、実在する「監禁現場」の座標だった。ネットの特定班が暴いた事件の裏で、作家の人生を支配する狂気の編集者が牙を剥く。現実と虚構が交錯する予測不能のサイコスリラー短編『編集者・江崎の完璧な校正と誤読の地図』全8話まとめ。