連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第3話 ~粘着する赤い視線~

「うわ、最悪だ。湿度がすげえ」

俺はデスクの上に置かれた「それ」を見て、心底うんざりした声を上げた。

ヘッドホンのノイズキャンセリングを最大にしても、粘着質な音が脳に染みてくる。

まるで、耳元で濡れた唇を動かされているような不快感。

……見テルヨ、見テルヨ、見テルヨ、見テルヨ……

ウィスパーボイスの女の声が、壊れたレコードのように延々とループしている。

物理的な落とし物は、高倍率のオペラグラス(双眼鏡)。

観劇やバードウォッチングで使うような、本格的な代物だ。

だが、今のこいつは、そんな健全な用途で使われていた形跡はない。

真っ赤な蜘蛛の糸のような、粘り気のある物体が、オペラグラス全体に絡みついている。

その糸はデスクの天板にもベッタリとへばりつき、生き物のように蠢(うごめ)いていた。

『品名:感情(固着型)』
『成分:執着、渇望、および一方的な支配欲』

「ストーカーかよ。……気持ち悪ぃ」

俺はゴム手袋を嵌めた手の甲で、デスクの天板を払った。

赤い糸がビクリと反応し、俺の指に巻き付こうと鎌首をもたげる。

俺は慌てて手を引っ込めた。

こんな執念深い感情に触れたら、一週間は悪夢を見る羽目になる。

***


夕方。

自動ドアが開き、一人の女性が入ってきた。

「あの、オペラグラスが届いていませんか」

年齢は三十代半ばくらいだろうか。

地味な色のカーディガンに、黒縁の眼鏡。黒髪を後ろで一つに束ねている。

どこにでもいそうな、大人しくて礼儀正しそうな女性――恭子(きょうこ)。

「観劇の帰りに落としてしまって。……奮発して買った良いやつなんです」

彼女は困ったように眉を下げて微笑んだ。

だが、俺には見えていた。

彼女の背中から、無数の「赤い糸」が触手のように伸びているのを。

その糸は、カウンターの奥にあるオペラグラスを求めて、空中でクネクネとダンスを踊っている。

彼女が言った「観劇」という言葉には、舞台への健全な興奮など微塵もついていない。

ついているのは、もっとドロドロとした、飢えた獣のような気配だけだ。

俺は何も追求しない。

正義感なんてものは持ち合わせていないし、何よりこの気味の悪い音をさっさと止めたいだけだ。

「ありますよ。さっさと引き取ってください」

俺はトングでオペラグラスを摘み上げ、カウンターに置いた。

「ああ、よかった……」

恭子が頬を紅潮させ、オペラグラスに手を伸ばす。

「これがないと、彼が遠くて……」

彼? 役者のことか?

まあ、どうでもいい。

俺は早く終わらせるために、いつもの手順を踏むことにした。

「手を出して」

「え?」

「確認作業だ」

俺は恭子の手首を、ゴム手袋越しに掴んだ。

バチッ。

神経回路が接続される。

俺の脳内に、恭子の視界が強引に流れ込んでくる。


《共有された視界》

そこは、煌びやかな劇場のステージではなかった。

丸いレンズ越しに見えているのは、夜の闇に浮かぶ高層マンションの一室だ。

距離は数百メートルといったところか。

カーテンの隙間から、部屋の中がハッキリと見える。

ソファに座り、コーヒーを飲んでいる見知らぬ男性。

彼はリラックスした様子でテレビを見ている。

自分が、暗闇の中からこうして拡大されて「観察」されていることなど、露ほども知らずに。

『あ、コーヒー飲んでる。可愛い』

『今日は青いマグカップだ。昨日は白だったのに』

『誰と電話してるの? 笑ってる。私のこと考えてるのかな』

『私が見てること、気づいてるくせに。焦らしちゃって』

ドロドロとした歪んだ思考が、俺の脳を侵食する。


「うっ……」

俺は強烈な吐き気に襲われ、パッと手を離した。

「はぁ、はぁ……」

最悪だ。今までで一番、ねっとりと重い。

俺は恭子を睨みつけた。

「あんた、趣味が悪いな。……『観劇』ってのは、マンションの窓のことかよ」

図星を突かれた恭子は、しかし悪びれもしなかった。

眼鏡の奥の目が、ギラリと光る。

さっきまでの「大人しい女性」の仮面が剥がれ落ち、その下にある異常な執着心が露わになる。

「……愛してるから、見守ってるんです」

恭子はうっとりとした顔で言った。

「あの人も、孤独でしょう? 私の視線を感じて生活するほうが、彼だって寂しくなくて幸せでしょう?」

「……話にならねえな」

「返してください、私の目」

恭子はオペラグラスをひったくるように掴み、それを愛おしそうに頬ずりした。

赤い糸が、彼女の目とレンズを再び繋ぐ。

……見テルヨ、見テルヨ

ノイズが彼女の体内へ戻り、さらに音量を増して鳴り響く。

「ありがとうございます。……今夜は冷えるから、彼、風邪ひかないといいな」

恭子は満足げに微笑み、足早に出ていった。

その足取りは、愛する人に会いに行く乙女のようであり、獲物を狙う狩人のようでもあった。

「……愛だの恋だの、聞こえはいいが」

俺は誰もいないカウンターで呟いた。

「結局は『支配』だろうが」

ストーカーの粘着質なノイズが消えても、センターの中には気味の悪さが残ったままだった。

***


ジリリリリ……。

ひと段落したところで、デスクの電話が鳴った。

内線だ。俺は気怠げに受話器を取った。

「はい、新宿」

『お疲れ様です、吉祥寺センターの相沢です』

受話器の向こうから、穏やかで落ち着いた男の声がした。

「……あ? ああ、どうも」

先日、チャットでやり取りした「おセンチな係員」か。

『先ほど、そちらからの移送品が届きました。ウサギのぬいぐるみです』

「ああ、あの汚いウサギか。届いたならいいでしょ」

俺は電話を切ろうとした。

だが、相沢の声がそれを引き止めた。

『ええ。ただ、ちょっと気になりまして。……随分と、厳重な梱包でしたね』

相沢の声には、非難の色はない。ただ純粋な疑問のようだ。

『伝票には「ぬいぐるみ」とありましたが、中身はただの綿ですよね。破損の恐れもない。なのに、プチプチで十重巻きにされて、さらにガムテープで密封されていた』

俺はイラッとした。

こっちは親切心でやってやったのに、いちいち細かいツッコミを入れてきやがって。

あのウサギからは、地獄の底から響くような怨念の唸り声がしてたんだよ。

あんなもん、そのまま送ったら配送業者が事故るレベルだ。

「はあ? 当たり前でしょ」

俺はつい、本音を口走ってしまった。

「だってアレ、中身がダダ漏れで気持ち悪かったんで。音がうるさくて敵わなかったんですよ」

言った直後、俺は「あ」と思った。

……中身が漏れてる? 音がうるさい?

一般人には、ただの「汚れたぬいぐるみ」にしか見えないはずだ。

俺は慌てて誤魔化した。

「い、いや、綿がね! 中の綿が出てて、不潔だったから! そういう意味で!」

受話器の向こうで、一瞬の沈黙があった。

相沢は、驚くわけでも、変に思うわけでもなく、ただ静かに納得したような声を出した。

『……なるほど。中身が漏れていて、うるさかった。……ご配慮、痛み入ります』

その声色は、先ほどまでと変わらない、丁寧なものだった。

『おかげで、無事に処理できました。新宿には、耳の良い方がいらっしゃるようで頼もしいです』

「……はあ。どうも」

『では、また』

ガチャン。通話が切れた。

俺は受話器を持ったまま、首を傾げた。

「……なんだ今の。『耳が良い』? ……嫌味か?」

地獄耳で噂好き、とでも言いたかったのか?

変な奴だ。

吉祥寺の係員なんて、どうせ暇を持て余した平和ボケ野郎だろう。

俺は受話器を戻し、再びヘッドホンを装着した。

だが、俺は知らなかった。

電話の向こう、吉祥寺駅の薄暗いセンターで。

相沢が、届いたばかりの「怨念まみれのぬいぐるみ」を見つめながら、確信に満ちた笑みを浮かべていたことを。

(第4話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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