連載小説『感情の忘れ物5 品川・三浦省吾編』第3話 ~魚料理:ボーナスのムニエル(Poisson)~

2027.01.03 品川駅 高輪口

「ちょっとリアムくーん! 歩くの遅い! 予約の時間過ぎちゃうよ!」

正月三が日の品川駅。

帰省ラッシュと初売り客でごった返すコンコースに、場違いなほど元気な声が響いた。

声の主は、真っ白なコートに赤いマフラーを巻いた峰岸理沙

彼女は、後ろをダラダラと歩く猫背の少年――影山リアムの手をグイグイと引っ張っていた。

「……理沙姉(ねえ)、声でかいよ。ここ、ただでさえ人流密度が高すぎて処理落ちしそうなのに」

リアムは露骨に嫌そうな顔をした。

彼は正月の雑踏が大嫌いだ。

非効率な移動、意味のない行列、そして何より、周囲に溢れる浮かれた感情「ハッピー・ニュー・イヤー・バグ」が、彼の『電子視覚(デジタル・ヴィジョン)』に大量のポップアップ広告のように表示されるからだ。

「文句言わない! せっかく私の冬のボーナスで、超高級フレンチをご馳走してあげるって言ってるのよ? 感謝しなさい!」

理沙は鼻息荒く宣言した。

そう、彼女は昨年末、巣鴨での大仕事『 “黒い蔦” 事件の解決』が評価され、本部から特別査定のボーナスが支給されたのだ。

気が大きくなった彼女は、「どうせなら一番高い店で、一番美味しいものを食べてやる!」と、ネットで話題沸騰中のこの店を予約したのだった。

「……フレンチなんてガラじゃないでしょ。巣鴨で塩大福でも食べてればいいのに」

「うるさいわね! たまにはお洒落したいの! ……ほら、着いたわよ!」

二人が見上げたのは、品川駅前の再開発エリアにそびえ立つ、ガラス張りの超高層ビル。

その最上階、地上200メートルにあるのが、今宵の戦場――『Le Miroir(ル・ミロワール)』だ。

***


エレベーターが最上階に到着すると、そこは別世界だった。

重厚な絨毯、クリスタルのシャンデリア、そして静寂。

窓の外には、宝石箱をひっくり返したような東京の夜景が広がっている。

「うわぁ……すごい……!」

理沙は目を輝かせたが、すぐに「コホン」と咳払いをして、背筋を伸ばした。

「……予約していた峰岸ですけど」

「お待ちしておりました、マドモアゼル」

黒服のギャルソンが恭しく頭を下げる。

リアムはその様子を冷めた目で見ながら、習慣的に店内の『裏側(コード)』をスキャンした。

Scanning Environment…
Atmosphere: Expensive / Artificial
Target: Waiter -> Emotion: Routine (Business Smile)

(……けっ。内装代が上乗せされてるだけの店だね。感情の解像度が低い)

リアムは心の中で毒づいた。

だが、その時だった。

「――いらっしゃいませ」

厨房の奥から、背の高いシェフが現れた。

純白のコックコート、銀縁眼鏡、そして凍てつくような美貌。

総料理長、三浦省吾だ。

彼は、入り口に立つ理沙とリアムの方へゆっくりと歩み寄ってきた。

その動きは、あまりに洗練されており、足音一つしない。

「うわ、イケメン……」

理沙が小声で呟く。

だが、リアムの背中には、正体不明の悪寒が走った。

Target: Chef (Miura)
>Status: Alert!
>Reading: ERROR (Data Overflow)

(……なんだ、こいつ? ただの料理人じゃない……?)

リアムの警告(アラート)など知る由もなく、三浦は理沙の前に立つと、優雅に一礼した。

「お待ちしておりました、峰岸様。……本日は遠方よりお越しいただき、光栄です」

三浦が顔を上げ、眼鏡の奥から理沙を見据えた瞬間。

彼の世界は、**「極上の香り」**で満たされた。

(……ああ。これは……!)

三浦の鼻腔をくすぐったのは、香水の匂いではない。

理沙が肩から下げているバッグ。そして彼女のコート。

そこに染み付いている、とてつもなく温かく、懐かしく、そして甘いオーラ。

それは、巣鴨のおじいちゃん、おばあちゃんたちが、彼女に向けた**「純粋な感謝」と「孫を思うような慈しみ」**の結晶だった。

『ありがとうねぇ、理沙ちゃん』

『また来てねぇ』

『風邪ひかないようにねぇ』

何百、何千という善意の感情が、彼女の持ち物に幾層にも積み重なり、熟成され、**「奇跡のヴィンテージ・チーズ」**のような芳醇なコクを醸し出している。

(……政治家の野心や、愛人の嫉妬などとは比べ物にならない。これは天然(オーガニック)の、それも最高級の特選素材だ)

三浦の喉が、ゴクリと鳴った。

理性が吹き飛びそうなほどの食欲を、彼は必死に「営業用スマイル」で覆い隠した。

「……素敵なバッグですね」

「え? あ、ありがとうございます! バーゲンで買った安物なんですけど……」

「いいえ。とても……美味しそうな色艶をしていらっしゃる」

三浦の言葉の端々に、粘着質な熱が混じる。

リアムが眉をひそめて一歩前に出ようとするが、理沙は「やだ、褒められちゃった!」と能天気に喜んでいる。

「さあ、どうぞこちらへ。今宵は貴女のために、特別なコースをご用意しております」

三浦が腕を差し伸べ、二人を奥の個室へと誘う。

その背中は、客を案内するホストのそれではない。

檻の中へ獲物を誘い込む、猛獣使いの背中だった。

「……メインディッシュが、向こうから歩いて来てくれた」

三浦は誰にも聞こえない声で呟き、舌なめずりをした。

品川の夜景をバックに、あまりにも不釣り合いな、しかし最高に贅沢な「捕食」の時間が始まろうとしていた。

(第4話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。


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