「……もう、嫌だ。何も見たくない。何も感じたくない……」
雪の日の凄惨な事件から逃げ出し、淳はただあてもなく歩き続けていた。
他人の心から発せられるトゲトゲとしたノイズから逃れるように、人通りの多い大通りを避け、暗く冷たい裏路地へと足を踏み入れる。
寒さで手足の感覚はとうに麻痺していたが、それ以上に、自分自身が持つ「触れたものを凶器に変えてしまう力」への恐怖と自己嫌悪が、彼の心をズタズタに引き裂いていた。
冷たいビル風が吹き抜ける夕暮れ時。
薄暗い道端のゴミ捨て場に、淳はふと足を止めた。
そこには、周囲のゴミとは明らかに異質な、古びた一つの黒いスマートフォンが落ちていた。
淳の感情の共感覚には、それがただの機械ではないことがはっきりと見て取れた。
真っ黒な画面の奥底から、ヘドロのように粘り気のある、吐き気を催すほどドス黒い悪意が、陽炎のようにゆらゆらと立ち上っていたのだ。
(……近づいちゃダメだ。あれは、すごく嫌なものだ。見ているだけで、息が詰まる……)
本能的な恐怖を感じた淳が遠巻きに素通りしようとした、まさにその時だった。
『――おい、坊主。今の俺の姿が見えるのか?』
鼓膜を震わせたのではない。淳の脳髄に直接、泥の中を這い回るような嗄(しゃが)れた男の声が響き渡った。
淳はビクリと肩を揺らし、立ち止まって周囲を見回した。夕闇の裏路地には誰もいない。声は、間違いなくあの黒い端末の中から聞こえていた。
『驚いたぜ。俺の思念に、ここまで明確に干渉できる人間がこの世にいるとはな。……どうだ坊主、一つ取引をしないか? お前の望みを叶えてやろう』
黒いスマートフォンの中に潜んでいた死刑囚・αは、薄暗い電子の檻の中で狂喜に打ち震えていた。
通常、他人の肉体に『感情転移』を行おうとしても、相手の心に健康な自我があれば弾き返されてしまう。乗っ取るためには、心に「隙間」が必要なのだ。
そして目の前にいるこの少年は、あろうことか自身の恐ろしい能力に絶望し、周囲の世界に怯え、精神を極限まですり減らして、ぽっかりと致命的な穴を開けている。αにとって、これ以上ない、奇跡のような最高の「容れ物」だった。
「僕の、望み……」
淳の虚ろな声が路地に溶ける。
『ああ。お前、他人の心が見えすぎて苦しいんだろ? 自分が誰かを傷つけてしまうのが怖いんだろ?……俺がお前のその苦しみを取り除いて、永遠に楽にしてやる。お前の心ごと、俺が全部引き受けてやるよ。その代わり、お前の中に俺を住まわせろ。それが条件だ』
それは、弱り切った獲物を絡め捕る悪魔の甘い囁きだった。
普通なら警戒するだろう。だが、他人の悪意のノイズと、自分が化け物であるという絶望で限界に達していた12歳の淳にとって、その声は暗闇の底に垂らされた、唯一の救いの糸に見えてしまったのだ。
「……本当に、楽に、なれるの? もう、誰も傷つけなくて、済むの……?」
両目から大粒の涙をこぼしながら、淳はすがるように問いかけた。
『ああ、約束する。怖いことは全部、俺に任せておけ。お前はもう、何も感じなくていい』
淳が、涙を拭いながら小さく頷いた瞬間。
αの能力『感情転移』が、牙を剥いて発動した。
ズォォォォォォォォ……ッ!!
「……あっ……ぁ……」
淳は強いめまいに襲われ、膝をついた。
αはまず、淳のズボンのポケットに入っていた子供用の『白いスマートフォン』に狙いを定めた。そこに、淳自身の本来の感情、純粋で優しい人格、そして大好きな両親と笑い合った温かい記憶のすべてを、暴力的な力で強制的に引き剥がし、真っ白な端末の中へと押し込んで封印した。
そして、見事に空っぽの「無」となった淳の肉体へ、黒いスマートフォンからα自身の邪悪な人格が、どす黒いスライムのように滑り込んでいったのだ。
「……ハァッ! 素晴らしい……! なんて軽くて、力に満ちた肉体だ!」
立ち上がった少年の口が、三日月のように深く、おぞましく吊り上がる。瞳からはかつての優しさが完全に消え失せ、底なしの狂気が宿っていた。
念願の完璧な肉体を手に入れた『如月(α)』は、ポケットの中で微かに温もりを放つ「白いスマートフォン(淳の本来の魂)」を鬱陶しそうに掴み出した。
「ククッ……お前はもう用済みだ」
後日、夜の新宿駅。
彼は雑踏に紛れ、その白い端末を生ゴミでも捨てるかのように、無造作にゴミ箱へと投げ捨てた。
***
純粋な少年の肉体を乗っ取った如月(α)は、その凶悪な本性を隠そうともしなかった。
彼は夜の街に繰り出し、暴行傷害事件を次々と引き起こした。
少年の小柄で無害な見た目を利用して、油断して近づいてきた大人を暗い裏路地に誘い込んでは、「快楽」のためだけに徹底的に痛めつける。
悲鳴を聞き、絶望の表情を浮かべる大人たちを見下ろすのは、αにとって極上のエンターテインメントだった。
だが、己の欲望のままに無軌道な犯行を重ねすぎたため、警察の捜査網は予想以上に早く彼を追い詰めた。
(……チッ、嗅ぎつけられたか。捕まるのは時間の問題だな。だが、今の俺が精神鑑定を受ければ、この『サイコパス』な本性が即座にバレる。そうなれば医療少年院か、最悪の場合は長期間出られなくなるな……それだけは御免だ)
狡猾なαは自室のベッドに寝転がり、親指の爪を苛立たしげに噛みながら、少年院での拘束を最短で終わらせるための「完璧なシナリオ」を冷酷な脳内で組み立て始めた。
彼は机に向かい、ペンを握った。そして、自分(未来の、記憶を失った淳)宛てに、一冊の、偽の『日記』を書き始めた。
『黒いスマートフォンを探せ。あれには家族の思い出が入っている』――本来の淳の筆跡を完璧にトレースし、心を持たない抜け殻に「心を取り戻す」という目的を与えて操る、悪魔の罠だった。
そして、いよいよ警察の足音が迫ってきた夜。彼はリビングでくつろぐ両親の元へ行き、純真な息子を完璧に演じきった。
「お父さん、お母さん……僕の分身だから、これ、大切に持っていてほしいんだ」
大きな瞳に嘘の涙を浮かべ、震える手で黒いスマートフォンを両親に託した。
両親は息子の不可解な行動に戸惑いながらも、その悲痛な表情に絆(ほだ)され、大切にそれを受け取った。
全ての下準備を終えたαは、自室に戻り、扉を閉めた途端にニヤリと醜悪な笑みを浮かべた。
(……しばしの別れだ。俺の「悪意」と「人格」は、一度あの黒いスマホに戻して、両親のそばに隠しておく。警察どもに捕まるのは、ただの抜け殻だ)
αは再び『感情転移』を行い、自分自身を両親に預けた黒いスマートフォンの中へと完全に移行させた。
後に残されたのは、狂気の死刑囚・αも、心優しい淳自身の魂も存在しない、文字通り「完全な空っぽの人形」となった少年の肉体だけだった。
直後、サイレンの音と共に踏み込んできた警察に手錠をかけられたのは、何の記憶も感情もなく、ただ虚空を見つめるだけの抜け殻だった。
だからこそ、その後の過酷な取り調べでも、少年院での厳密な精神鑑定でも、彼からは一切の「悪意」や「反抗心」が検出されなかったのだ。当然だ。心がないのだから、怒りも暴力性も湧きようがない。
彼は教官の指示を機械のように完璧にこなすプログラムとして機能し、周囲の大人たちを驚かせるほどの「オールAの模範囚」として、最短での退所を勝ち取ったのである。
***
そして現在。
少年院を出所した空っぽの如月淳は、自室で見つけたあの日記の指示に従い、自分の心を取り戻すため、両親がかつてスマホを置き忘れた品川のレストランへと向かっていた。
失われた「家族の思い出」と「自分の心」を取り戻すために。
少年は、ただ与えられた目的だけを胸に、夕暮れの街を走る品川行きの電車に揺られていた。
連載小説『感情の忘れ物6 吉祥寺・如月淳編』
(第5話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
