スピンオフ作品『感情の忘れ物日記 ~不定期の忘れ物~』No.01:須藤の誕生日

世界最大の巨大ターミナル・新宿駅。

夕方の混雑が本格化する直前、駅の地下深くにある遺失物取扱センターで、須藤陸は大きくため息をついた。

「……ったく、どいつもこいつも、余計なもんばかり落としていきやがって」

彼の耳には、常時、地上の群衆が撒き散らす「感情のノイズ」が届いている。欲望や嫉妬といった感情が混ざり合う不協和音は頭痛となって、一日中須藤を苦しめていた。

時計の針が午後六時を指すと同時に、須藤はタイムカードを押し、愛用のノイズキャンセリングヘッドホンを首にかけた。完全に世界を遮断するシャットアウトモードへ。静寂が鼓膜を包み、ようやく彼の表情が和らいだ。

改札を抜け、中央線に乗って中野の築古アパートへ向かう。いつものコンビニに入り、冷えた缶ビールと焼き鳥(タレ)をカゴに入れた。レジへ歩きかけたその時、スマートフォンに表示されたカレンダーの数字が目に留まる。

「……あ?」

九月十五日。

(……ああ、そういや今日、俺の誕生日じゃねえか)

自分の年齢すら一瞬曖昧になるほど、彼にとって誕生日はどうでもいい記念日だった。祝ってくれる家族がいるわけでもなく、掃き溜めで感情ノイズを処理する日々に追われていれば、日付の感覚などただの記号に過ぎない。  

普段なら鼻で笑って通り過ぎるはずだった。だが、チルドコーナーの棚に並ぶ、透明な容器に入った小さなショートケーキがふと目に留まった。白くて丸いスポンジの上に、ちょこんと乗った真っ赤なイチゴ。

「……チッ、何考えてんだ、俺は」

がらにもない。そう毒づきながらも、須藤はケーキを掴み、カゴの缶ビールの隣へと滑り込ませていた。

コンビニ袋を指にぶら下げ、アパートの錆びついた鍵を開けてドアを回した。

「ただいま、っと……」

誰もいない暗闇に向かって呟き、靴を脱ごうとした――その瞬間、須藤の全身の産毛が逆立った。

何かがおかしい。

部屋の中は真っ暗なはずだった。しかし、廊下の先にある和室の奥が、障子越しにうっすらと暗く光っている。そして、その中心に、確かに「蠢く黒い影」があった。

「……あれはなんだ? それらしい音(ノイズ)は何も聞こえなかったが」

須藤は息を潜めた。

これほどの異常事態なのに、それらしいノイズが一切聞こえてこない。感情が暴走しているなら、耳を劈つんざくような歪んだ叫びが部屋中に響き渡っているはずなのだ。しかし、部屋の中は奇妙なほどに静まり返っている。ヘッドホンを外し、警戒心を最大にして、半身に構えながらゆっくりと近づく。

すうっと息を吸い込み、和室の障子を勢いよく引き開けた。

「なっ……なんだ!?」

そこには、かつて巣鴨で暴走しかけた「黒い蔦つた」を背中から蠢かせた峰岸理沙がいた。 理沙はうつむいたまま、暗闇の中で言った。

「あら、いらっしゃいませ」

「てめえ! また感情を吸い込みすぎたのか!! あれほど注意しろって言ってたのに!!」

怒りと焦燥。理沙がまたあの悪意に飲み込まれ、心が壊れてしまう前に救い出す。それだけが頭を支配していた。須藤は自身の能力「共有(シンクロ)」を発動し、理沙の「黒い蔦」を吸い取ろうと右手を伸ばした――その瞬間!

パン!、パン!、パパーンン!!

けたたましい爆音と同時に、おもちゃのクラッカーから紙吹雪が放たれた。

「うおあっ!?」

須藤はすっ転ぶように尻もちをついた。 部屋の蛍光灯がパチッと点灯し、和室が一変して明るい光に満たされる。

「……あーあ。僕は止めようって言ったんだよ。でも理沙姉(ねえ)がどうしてもって」

押し入れの影から、やれやれと肩をすくめながら影山リアムが出てきた。彼の手には、太い釣り糸が握られている。

「須藤さん!、お誕生日おめでとうございます!」

反対側から、クラッカーを持った如月淳が元気よく飛び出してきた。なんと、理沙、リアム、淳、相沢が、須藤に内緒でサプライズパーティーを開いていたのだ。

背中で蠢いていた「黒い蔦」は、細く切った段ボールをマジックで黒く塗りつぶしたものを、リアムと淳が釣り糸で操っていた。

「須藤さん!私の成長をいつまでも認めてくれないから、驚かしちゃいました!大成功です!」

バケモノ化の演技を解いた理沙が、嬉しそうに笑う。

「て、てめえら……」

髪についた紙吹雪をむしりながら、須藤は立ち上がった。恥ずかしさと情けなさで顔が沸騰しそうに赤くなる。部屋の隅では、相沢がその様子を微笑みながら見ていた。

「須藤さん。たまにはこういうのもいいでしょう?」

「いい訳あるか!、相沢、お前が付いていながらなんだ!」

怒鳴り散らす須藤に、相沢は穏やかに言った。

「まあまあ、さ、乾杯しましょう。品川の三浦さんから、料理が届いていますよ」

「三浦の……?」

テーブルの重箱を開けると、ローストビーフやテリーヌなど、極上フレンチがぎっしりと並んでいた。

理沙は須藤が床に落としていた、少し潰れた小さなショートケーキを見つけた。

「あ、須藤さん、自分でもケーキ買ってたんですか? 可愛いところある!」

「うるせえ! それはただの気まぐれだ! 誰がケーキなんて!」

顔を真っ赤にしてひったくる須藤だったが、口元は自分でも気づかないうちに緩んでいた。

「……ああ! もう!、今日は飲むぞ!!」

ビール缶を掲げ、カチンと小気味よい音が響き渡る。

狭い中野のアパート。

いつもなら頭痛の原因でしかない「他人のノイズ」が、今夜だけは温かく、愛おしいノイズとなって、須藤の心を優しく満たしていくのだった。

(スピンオフ作品No.01 -完-)


スピンオフ作品『感情の忘れ物日記 ~不定期の忘れ物~』No.02:巣鴨の親衛隊
「感情の忘れ物」の賑やかな日常を描くスピンオフ第2弾。如月淳の勘違い、そして巣鴨のお年寄りたちの峰岸理沙への深すぎる愛が引き起こす大騒動。愛する理沙を守るため闘魂鉢巻を締め武装した「巣鴨親衛隊」が怒濤の勢いで結集し謝罪に来た三浦を……?
異能SF・現代ファンタジー連載小説『感情の忘れ物』シリーズ(全10話)
吉祥寺駅北口にある不思議な遺失物取扱センター。そこには傘や財布だけでなく「誰かが置き忘れた感情」が届けられる。白い手袋越しに「感情の形」を見ることができる特別な係員の『相沢』と、様々な『感情』たちが織りなす至高のヒーリング・ストーリー。