スピンオフ作品『感情の忘れ物日記 ~不定期の忘れ物~』No.04:相沢、池袋に行く

日曜日の昼下がり。

吉祥寺駅北口にある遺失物取扱センターの空気は、街のにぎやかさとは切り離されたように静まり返っていた。

「いいですか、淳君。感情の波動を抑えるコツは、息を吐く瞬間に自身の境界線を明確に意識することです」

「は、はい……! 息を吐く瞬間に、境界線を……!」

パイプ椅子の上で背筋をピンと伸ばした如月淳が、必死の面持ちで深呼吸を繰り返している。その傍らで、相沢は静かに湯呑みの白湯を口に含み、満足そうにひとつ息をついた。

「実に筋がいいですね。今日はここまでにしましょう」

「ありがとうございます、相沢さん!」

淳がパッと表情を輝かせ、額の汗を拭った。

片付けをしながら、相沢は自らの手元――ピシリと隙間なく装着された白手袋をじっと見つめ、小さく首を傾げた。

「……どうされました?」

「いえ。白手袋の布地に、ほんの少しだけシワが寄りやすくなっておりましてね。手入れ用の、白手袋に適したアイロンがひとつ欲しいところなのですが」

「あ、それならヨドバシカメラに行けば良いものが揃っていますよ!」

「なるほど。では、近くの店舗へ行ってくるとしましょう」

相沢が立ち上がろうとすると、淳が思いついたように目を輝かせた。

「せっかくだから、これから一緒に池袋店に行ってみませんか? 去年オープンしたばかりで、家電の品揃えもすごいんですよ!」

相沢はしばし考え、「池袋……ええ、良いでしょう」と静かに頷いた。

*** 

中央線と山手線を乗り継ぎ、二人は池袋駅に降り立った。

改札を抜けた瞬間、相沢の足がピタリと止まった。

「……これは……」

相沢の特別な『視覚』に飛び込んできたのは、尋常ではない景観だった。

ターミナル駅にありがちな疲労や焦燥といった雑多な感情とは一線を画す、脈打つような、それでいて爆発的な「極彩色のポジティブ感情」が、駅全体――いや、池袋の街全体を覆い尽くすようにうねっていたのだ。

ビビッドなピンク、蛍光の黄色、ギラギラとしたターコイズブルー。それらの色彩がオーロラのように街を包み込んでいる。

「……何事でしょうか。かつてない規模の感情の波及……何らかの特級異常事態では」

相沢が白手袋の指先を顎に当て、危機感をあらわにした。

「あ、相沢さん違います! あれを見てください!」

淳が指さした先には、色とりどりのウィッグを被り、奇抜で華やかな衣装を身に纏った人々が行き交っていた。

「今日は『池袋サンシャインシティ』で大きなコスプレイベントが行われている日なんです!」

「こすぷれ……?」

相沢が首を傾げる間に、人の流れに任せて二人はサンシャイン60通りへと踏み出していた。

*** 

街は文字通り、異世界の住人たちでごった返していた。

「あの方は……全身が青く、背中に大きな翼が生えていますが……人間ですね?」 

「はい! 人気アニメのキャラクターですよ!」

「では、あちらの重厚な甲冑を纏い、巨大な剣を背負ったお方は?」

「ゲームの騎士様ですね!」

未知の文化に対する相沢の真摯すぎる質問に、淳がひとつひとつ丁寧に答えていく。

「それにしても……すごいです」

相沢は見上げるように空を見つめた。人々が抱く「変身願望」「作品への愛」「楽しみたいという情熱」――それらが混ざり合い、街全体に空前絶後の鮮やかなオーラを作り出していた。

淳に案内されるまま、二人はメイン会場であるサンシャインシティの屋外スペース「スペイン階段」に到着した。そこは、まさに足の踏み場もないほどの熱気に包まれていた。絢爛豪華なコスプレイヤーたちが並び、その周囲をカメラを構えた人々――通称「カメコ」たちが重なり合うように取り囲んでいる。

「……この熱量は、一体何なのでしょうか」

相沢が困惑したように呟き、辺りを見渡していると、不意に、彼の『視覚』が群衆の中に混じる不快な「色の濁り」を捉えた。

「……あのお方」

相沢の視線が、人混みの隙間にいる一人の男に固定された。

「あの男性……周囲の人間とは違う感情の揺れ方をしています」

「えっ?」

淳も意識を集中させ、男の放つ波長を感じ取った。

「本当だ……なんか、すごく嫌な感じがします」

「ええ。あの人は、純粋に撮影することを楽しんでいるのではありません。……撮影されている側の『困惑』を楽しんでいます」

男の掲げるスマートフォンは、ローアングルから女性コスプレイヤーの足元へとしつこく向けられていた。

相沢は一切の躊躇なく、静かな足取りで男へ近づいて行った。

「あなた、そこで何をしているのですか?」

背後から低く通る声で問いただし、相沢が白手袋の手で男の腕を掴んだ。

「んだよ、うるせえな!」

悪事を邪魔された男はカッとなり、振り向きざまに相沢の顔面へ拳を突き出した。

――だが。相沢は顔色ひとつ変えず、最小限の体のさばきで拳を滑らかに回避。そのまま流れるような動作で男の肘を極め、一瞬で地面にうつ伏せに制圧した。

「……ぐわっ!?」

「警備の方、こちらへ」

相沢が呼びかけると、慌てて駆けつけたイベントスタッフへ、男はあっさりと引き渡された。

一連の完璧すぎる打倒劇。一瞬の静寂の後――パチパチパチ、と小さな拍手が起こり、それが瞬く間に大歓声へと変わった。

『きゃあああーっ! かっこいいー!!』

『なになに!? 公式のヒーローショー!?』

『凄すぎる! 白手袋の駅員さんキャラだ!!』

『何のアニメ!? 超イケメンなんだけど!?』

歓声と拍手の渦の中心で、相沢は首をかしげた。

(なぜ私に、このような拍手が……? 治安維持の一環を行っただけなのですが)

黒の制服に身を包み、ピシリと隙のない白手袋をはめた、端正で冷酷なほどの美形。相沢の佇まいは、オタクたちの目に「完成度が高すぎる奇跡のコスプレイヤー」として映っていたのだ。

『キャー! 写真撮っていいですか!?』

『ポーズお願いします!!』

次々と向けられるカメラと、キラキラとした熱視線。

「写真……? どうしてでしょう?」

相沢は戸惑った。だが、彼を取り囲む人々の感情の色を『視覚』で確かめると――そこにあるのは悪意など微塵もなく、純粋で、眩しいほどの「楽しさ」と「感動」だった。

(なるほど……皆様、この空間を楽しんでおられるのですね)

相沢は少しだけ考えると、すっと静かに背筋を伸ばして立った。そして――白手袋をした両手を、胸の前で静かに組み、すっと遠くを見つめる独特の立ち姿(ポーズ)をとった。

『きゃあああああっ!!』

『かっこいいいーっ!!』

『それっぽい! すごくそれっぽい!!』

割れんばかりの歓声が響き渡る。

「あ、相沢さん……! もう完全にヒーロー扱いですよ!」

人だかりが膨れ上がるのを見て、淳は青ざめて慌てて周囲の整理を始めた。

「す、すみません! こちら通路になります! 撮影される方は順番にお願いします! 押さないでください! ……って、なんで僕がスタッフみたいなことしてるんだろ……!」

必死に交通整理をする淳をよそに、相沢は胸の前で手を組んだまま、人だかりのずっと向こうを見つめていた。

池袋の街。その上空に、幾重にも重なる巨大な高架道路が見える。車道と高速道路が立体的に交差し、無機質で美しく空間を切り取っている構造物。

『……池袋ジャンクション』

相沢はそれをじっと眺め、目を細めてぽつりと呟いた。

「素晴らしいですね……」

「……何がですか!?」

汗だくで人ごみを抑えていた淳が振り返る。

「立体交差です」

「そこ!?」

周囲では、相沢のそのクールな横顔にさらに歓声が上がっていた。

「キャー! 横顔も最高!」

写真を撮る人々、見惚れる人々、必死に誘導する淳。

相沢の視線だけは、最後まで巨大な高架道路の曲線から離れなかった。

*** 

――その日の夕方。

すっかり日が傾いた池袋駅のホーム。二人は吉祥寺へ向かう電車を待っていた。

「……結局、アイロンは買えませんでしたね」

人波に揉まれて少しくたびれた淳が言うと、相沢は穏やかな表情で言った。

「そうですね」

「どうします?」

「また今度でいいでしょう」

相沢は微かに目を細め、微笑んだ。

「淳君」

「はい?」

「今日は、楽しかったですね」

「……!」

淳は少し驚いたように目を見開き、それから嬉しそうにぱっと表情を明るくして言った。

「はい。楽しかったです!」

「では、帰りましょう」

「はい!」

滑り込んできた電車のドアが開き、二人は静かにその中へ消えていった。

(スピンオフ作品No.04 -完-)


異能SF・現代ファンタジー連載小説『感情の忘れ物』シリーズ(全10話)
吉祥寺駅北口にある不思議な遺失物取扱センター。そこには傘や財布だけでなく「誰かが置き忘れた感情」が届けられる。白い手袋越しに「感情の形」を見ることができる特別な係員の『相沢』と、様々な『感情』たちが織りなす至高のヒーリング・ストーリー。