連載小説『感情の忘れ物』 第8話 ~天国への不在通知~

雨の日だった。

吉祥寺の街全体が、灰色のヴェールに包まれている。

忘れ物センターの中も、今日はいつにも増して薄暗い。

カウンターの奥で、相沢は一つのアクリルケースを見つめていた。

中にあるのは、淡い茜色の光だ。

それは液体のようにゆらゆらと揺れ、決して波立つことなく、静かに底に沈殿している。

手袋越しに触れると、**「夕凪」**の海に手を浸したような感覚が伝わってくる。

熱くもなく、冷たくもない。

ただ、どこまでも深く、広く、そして泣きたくなるほど優しい。

『拾得日時:〇月×日 午前九時』
『拾得場所:吉祥寺駅 京王井の頭線ホーム エレベーター前』
『品名:感情(熟成型)』
『成分:感謝、および愛惜』

それは、長い年月をかけて醸成された、極上の古酒のような感情だった。

だが、相沢の表情は優れない。

なぜなら、この忘れ物には、もう「帰る場所」がないことを知っていたからだ。

***


午後四時。雨足が弱まった頃、一人の老婦人が訪れた。

喪服を着ている。手には数珠と、古びたハンドバッグ。

彼女は入り口で躊躇していたが、相沢が小さく会釈をすると、おずおずと歩み寄ってきた。

「あの……主人の、遺品を整理しておりましたら」

か細い声だった。

「手帳に、こちらの預かり証が挟まっておりまして」

相沢は無言で頷き、物理的な忘れ物を差し出した。

大学病院の診察券と、老眼鏡。

日付は、一ヶ月前。おそらく、闘病中の通院帰りに立ち寄った際に落としたものだろう。

「ああ、やっぱり。あの日、眼鏡を失くしたと騒いでおりましたから」

老婦人は懐かしそうに、そして寂しそうに眼鏡を撫でた。

「主人は、先週、息を引き取りました」

「……お悔やみ申し上げます」

相沢の言葉に、老婦人は力なく微笑んだ。

「無口で、不器用な人でした。最期まで、痛いとも、辛いとも言わず……私のことなど、どう思っていたのやら」

彼女の言葉の端々に、後悔が滲んでいる。

「私は、彼にとって良い妻だったのでしょうか。彼は、幸せだったのでしょうか」

それは、残された者が永遠に抱える問いだ。

死者はもう答えてくれない。

相沢は、茜色のケースを手に取った。

本来、忘れ物は本人に返却するのが原則だ。

持ち主のいない感情は、行き場を失い、やがて霧散するか、変質してしまう。

だが、この「夕凪」は、最期の瞬間まで、持ち主が抱えていた真実だ。

これを闇に葬ることは、相沢にはできなかった。

「奥様。本来はご本人以外にお渡しできないのですが」

相沢は静かに切り出した。

「旦那様は、眼鏡と一緒に、これを落とされていました」

相沢はケースをカウンターに置いた。

老婦人には、中身が見えない。ただの空のケースに見えているはずだ。

「これは……?」

「旦那様の『心』です」

老婦人は目を見開いた。

「主人の……」

「あなたには、直接触れることはできません。ですが、私が『通訳』することはできます」

相沢は手袋を外し、素手でケースに触れた。

一瞬のためらいの後、指先を沈める。

直接触れる「他人の感情」は、強烈な情報量となって相沢の脳内に流れ込む。

言葉ではない。映像と、匂いと、温度。

相沢は目を閉じ、それを受け止め、言葉に変換していく。

「……匂いがします」

相沢が呟く。

「甘い、卵焼きの匂いです」

老婦人がハッとして口元を押さえた。

「主人が、一番好きだった……」

相沢は続ける。

「夕暮れの台所。トントンという包丁の音。あなたは鼻歌を歌っている。……旦那様は、それを居間のソファから見ています」

相沢の声が、少し震える。感情の波が、彼の胸を打つからだ。

「『ありがとう』と言おうとして、喉まで出かかって、言えない。……言わなくても伝わっていると甘えて、結局飲み込んでしまう」

茜色の光が、相沢の言葉に合わせて明滅する。

「『すまない』。苦労ばかりかけた。『ありがとう』。俺の人生は、お前がいてくれて初めて完成した」

「……そして、『愛している』」

相沢は目を開けた。

そこには、相沢自身の言葉ではなく、故人の魂の言葉があった。

「……そう、言っています。心の底から、安らかな気持ちで」

「あなた……っ!」

老婦人はカウンターに突っ伏し、声を上げて泣いた。

「ばかな人……言ってくれなきゃ、わからないじゃない……!」

それは悲鳴のようだったが、その背中からは、憑き物が落ちたような安堵が感じられた。

長い間、彼女を縛り付けていた「不安」という鎖が、夫の「愛惜」によって溶かされたのだ。

***


しばらくして、老婦人は顔を上げた。

涙で濡れた顔は、来た時よりもずっと穏やかで、若々しく見えた。

「ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」

彼女は何度も頭を下げ、夫の眼鏡と診察券を大事そうに抱えて帰っていった。

茜色のケースは、役目を終えたかのように、中身が空になっていた。

持ち主の元へ帰ることはなかったが、届くべき場所へ、届いたのだ。

相沢は、再び手袋を嵌めた。

素手で触れた指先が、まだじんわりと熱い。

他人の愛の残滓が、皮膚にこびりついている。

「……間に合って、よかったですね」

相沢は誰にともなく呟いた。

その時だった。

カタタッ。

背後の棚で、硬質な音が響いた。

相沢が振り返ると、「分類不能品」の棚にある、透明なガラスの欠片たちが震えていた。

一つではない。十個、いや、それ以上。

それらは共鳴し合い、微かに光を放ち始めている。

相沢の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

(伝えられなかった想いは、こうして誰かが拾わなければ、永遠に彷徨う)

あの老婦人は幸運だった。

だが、自分はどうだ?

自分が過去に切り捨て、置き去りにしてきた「自分の言葉」「自分の感情」は?

あれらは、誰にも届くことなく、あの棚の中でずっと待っているのではないか?

何十年も。

亡霊のように。

「……静かにしてくれ」

相沢は懇願するように呟いた。

だが、欠片たちの震えは止まらない。

それはまるで、近づいてくる「限界」を知らせるカウントダウンのようだった。

相沢は逃げるように事務所の明かりを消した。

暗闇の中で、透明な欠片たちだけが、青白く、妖しく光り続けていた。

(第9話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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