19世紀中葉、煤煙と霧に沈む産業革命下のロンドン。
薄暗い書斎の中で、エイダ・ラブレス伯爵夫人は、真鍮と鋼鉄で組まれた巨大な機械の模型――
チャールズ・バベッジが構想した「解析機関」の歯車を静かに見つめていた。
世界は物理的な力で動いているのではない。目に見えない「法則」と「手順」で動いている。
この金属の塊の中に「すべての事象を計算し尽くす未来」を幻視できるのは、彼女だけだった。
「――実に美味そうな脳髄だ。その頭の中には、さぞ極上の情報が詰まっているのだろうな」
不意に、部屋中に耳障りな羽音が響き渡った。
無数の黒い蠅が虚空から湧き出し、それらが合体して、肥え太った醜悪な巨人の姿を形作った。
地獄の四天王「暴食のベルゼブブ」。
「我は暴食。あらゆる物質、あらゆる事象、あらゆる演算を喰らい尽くす者。ルシフェルは己の論理の罠にハマって自滅したが、我にはあんな小手先のパラドックスは通用せん」
ベルゼブブは、巨大な舌で唇を舐めずりながらエイダを見下ろした。
「我が誇る圧倒的な処理能力の前には、いかなる複雑な論理も、ただ力任せに咀嚼され、消化されるのみ。さあ、3つの願いを言え。お前の描くそのガラクタを完成させてやってもいいぞ。代償は、お前のその美味なる魂だ」
エイダは恐れるどころか、興味深そうにベルゼブブを観察した。
「あらゆる演算を咀嚼する処理能力……。素晴らしいわ。今の蒸気機関では到底不可能な計算力が、そこにあるのね」
彼女は机の上にあった、穴の空いた数枚の厚紙――パンチカードを手に取った。
「悪魔との取引に応じましょう。ただし、私の願いは少し特殊よ」
「構わん。言ってみろ」
「第1の願い。あなたの魔力による事象改変を、私がこのパンチカードに記述する条件分岐に従った、厳密な逐次処理の手順として固定しなさい」
「……なんだと?」
ベルゼブブは眉をひそめた。魔法というブラックボックスを、わざわざ機械的な手順に落とし込めというのだ。
「ふん、人間らしい小賢しい縛りだ。だが、手順が明確になるだけのこと。我が巨大な胃袋の前では何の障害にもならん。叶えてやろう」
「第2の願い。あなたの処理能力が対象とする『変数』を、一時的に『この宇宙に存在するすべての原子の現在の運動状態』と定義しなさい」
ベルゼブブは醜悪な笑い声を上げた。
「なるほど! 宇宙すべての事象を演算するのか! それは極上のフルコースだ。我の腹を満たすにはちょうどいい。どんな複雑な計算式になろうとも、我の暴食は一瞬でそれを平らげてみせるぞ!」
悪魔の体が膨張し、周囲の空間がすさまじい熱を帯び始めた。ベルゼブブの体内にある無限の演算器が、宇宙の全情報を飲み込む準備を整えたのだ。
エイダは、手元にある最後のパンチカードを解析機関の模型に差し込みながら、氷のように冷たく、透き通った声で宣告した。
「では、第3の願い。――以下の処理を実行しなさい」
エイダは、人類史上初めて「プログラム」を口頭で悪魔に入力した。
「『宇宙の全原子の運動状態を計算し、その結果を出力せよ。ただし、結果を出力した直後、あなた自身の計算行為から発生した微小な熱や空気の揺らぎによって変化した、最新の宇宙の状態を直ちに再計算せよ。』」
ベルゼブブの表情から、余裕が消え失せた。
「『この処理の終了条件は、宇宙の全原子が完全に静止した時のみとする。そして、この終了条件を満たし、処理を完全に抜けるまで、私の魂を奪うという次の命令に移行してはならない』」
「な……っ!?」
ベルゼブブの巨体が、ビクリと硬直した。
エイダが仕掛けたのは、終わりのない再計算の地獄――無限ループである。
宇宙のすべてを計算するという莫大な処理を行えば、必ず悪魔の周囲に熱やエネルギーの変動が生じる。すると宇宙の状態が変わってしまうため、悪魔は「今の自分の計算によって変化した新しい宇宙」をもう一度計算し直さなければならない。
計算すれば状態が変わる。状態が変われば再計算しなければならない。
「ば、馬鹿な……! 計算の終わりが、次の計算の始まりだと!? 終わらん……これでは、我が暴食を満たす終着点が……!」
「ええ。あなたの誇る処理能力は、決して空になることのない底なしの皿を与えられたのよ。さあ、喰らい尽くしてごらんなさい」
ベルゼブブは必死に計算を完了させようと、自身の持つ全魔力を演算に叩き込んだ。
ジー……ジジジジジッ!!
悪魔の体を構成していた無数の蠅たちが、超高速の演算による凄まじい摩擦熱に耐えきれず、次々と発火していく。
どれほど巨大な胃袋を持っていようと、無限に供給され続ける致死量のデータの前では、いずれ破裂する。
「が、ああああぁぁぁっ!! 処理が……追いつか、ない……! 腹が……情報で、張り裂け――っ!!」
ベルゼブブは断末魔の叫びを上げ、その巨体は限界を超えた演算の暴走によって完全にフリーズした。
黒い蠅の群れは炭化し、膨大な魔力の残滓だけが行き場を失い、エイダの目の前にある解析機関の歯車の中へと吸い込まれ、永久に閉じ込められた。
エイダは、静寂を取り戻した部屋で、ひとり微笑んだ。
「どんなに強大な力も、論理のループには逆らえないわ」
***
――歴史家たちは後年、首を傾げることになる。
19世紀のイギリスにおいて、まだ電気すらまともに普及していない歯車と蒸気だけの時代に、なぜエイダ・ラブレスという一人の女性が、現代のコンピューターに通じる「繰り返し処理」「条件分岐」といった高度な概念を突然閃き、書き残すことができたのか。
その真相は、フリーズした巨大な悪魔の演算の核が解析機関の模型に封じ込められ、彼女に「情報を処理するプロセス」そのものの構造を直接覗き見させていたからであった。
人類はここに、悪魔の死骸を解剖することで「プログラム」という概念を手に入れたのだ。
***
深い、深い暗黒の底。
地獄の最下層で、ただ一つ残った最も巨大な影が、静かに目を開いた。
『……ベルゼブブの演算リソースが枯渇したか。愚図めが』
その声には、怒りも焦りもなかった。
あるのは、すべてを俯瞰する者の絶対的な冷徹さだけだった。
地獄の四天王の長、「虚無のサタン」。
『法典で縛り、パラドックスで迷わせ、無限ループでフリーズさせる。見事だ、人間よ。貴様らの進化の歴史は、我ら悪魔を討伐し続けた歴史そのものだったというわけだ』
サタンの影が、世界の裏側に張り巡らされた不可視のネットワークと同化していく。
『だが、私はこれまでの三下とは違う。私は世界の物理法則、因果、概念のすべてを定義するソースコードそのもの。いかに人間が優れていようと、システムの外側に出ることはできない。……さあ、最後の知恵比べと行こうではないか。20世紀最高の頭脳、ジョン・フォン・ノイマンよ』
***
(第4話 最終話へつづく)

