連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第8話:白紙を染める五色のノイズ

第8話:白紙を染める五色のノイズ
目安読了時間
約5分(約3,200文字)
小説ジャンル
サイバーパンク / SFファンタジー
主要登場人物
相沢、篠原綾乃
【あらすじ】規格外のノイズが逆流し、崩壊の危機に瀕する中枢サーバー。純粋な善意で作られたシステムは、人間の底知れぬ業の前に軋みを上げる。混乱する綾乃の元へ静かに歩みを進める相沢。白紙の世界に、少しずつ色が戻り始める。

東京駅 地下 統括本部 総司令室

***

東京駅の地下深く、ユートピア・システムの中枢である巨大なメインサーバー室は、精密機械を保護するための過剰な冷房装置によって、肌を刺すような極寒の静寂に保たれていた。その凍てついた無菌室のような総司令室に、悲痛な叫び声が響き渡った。

「……な、何が起きているの!?」

ホログラムのコンソールにしがみつく篠原綾乃の顔は、驚愕と恐怖で完全に青ざめていた。つい数分前まで、巨大なメインモニターには、東京全域の感情ノイズが完全に消去され、塵一つない「ノイズゼロ」の美しい白紙のデータが、整然と明滅していたはずだった。だが今、その完璧に漂白されたはずのシステム画面は、信じられない速度で増殖する、どす黒い「真っ赤な警告色のアラート」によって埋め尽くされようとしていた。

『Warning: Unknown Massive Data Detected.(警告:未知の巨大データを検知)』『Warning: Capacity Exceeded.(警告:処理許容量を超過しました)』
『Critical Error in Core Server.(中枢サーバーに致命的エラー)』

無機質な白い壁に囲まれた空間に、鼓膜を鋭く穿うがつような警告音が鳴り響く。上階では、ガラス張りの向こう側に整然と並び、東京中の心を漂白し続けていたはずの巨大なサーバー群が、これまでにない異様な低音の駆動音を立てて激しく振動していた。無数の排熱ファンからは、過負荷によって基盤が焼き焦げるような、不気味な異臭が漂い始めている。

「どうして……!? 各駅の回収ポートに設定した安全装置(リミッター)は、すべて正常に作動しているはずよ! なぜ、こんな規格外の通信量(トラフィック)が、中枢へ直接流れ込んでくるの!」

綾乃は震える指先でホログラムのキーボードを必死に叩き、侵入してくる膨大なデータの正体を解析しようとした。だが彼女は知る由もなかった。秋葉原の薄暗いネットカフェの片隅で、エナジードリンクを片手にした生意気な少年が、彼女の完璧なシステムの防御壁(ファイアウォール)を完全に骨抜きにし、各駅からの接続ルートを限界突破(オーバークロック)させて全開にしていたことなど。そして何より、綾乃は「人間の感情の底知れぬ質量」を、致命的なまでに侮っていたのだ。

「……くっ! サブサーバーに処理を分散させて! 異常データを今すぐ強制消去するのよ!」

綾乃の指示に従い、システムがフル稼働で消去プロセスを実行しようとする。だが、メインモニターに映し出された、東京の路線図を結ぶ「五本の赤いバイパス」から流れ込んでくるデータは、システムが想定していた「日常の微細なストレス」などという生易しいものではなかった。

ズガァァァァンッ!!

総司令室全体が、まるで直下型地震に見舞われたかのように激しく揺れた。回線を通じて流れ込んできた、何百万人もの人間の「感情の重さ」そのものが、システムを介してコンクリートの地下空間を軋ませ、物理的な衝撃となって大気を震わせているのだ。

「きゃあっ!」

綾乃はコンソールにしがみつき、涙の滲む目でモニターに流れる異常なデータの波を凝視した。

まずシステムを無惨に蹂躙したのは、新宿から流れ込んできた『黒い霧』だった。須藤が地下の金庫に封じ込めてきた剥き出しの絶望と怨嗟。都市東京の最暗部から噴き出した呪いが、ドロドロとしたタールとなって、美しかった白紙のシステム領域をどす黒く塗りつぶしていく。室内のスピーカーからノイズ混じりの悍おぞましい呪詛が漏れ出し、綾乃は耳を塞いで悲鳴を上げた。

それに続くように、巣鴨からの『執着の匂い』が、粘着質なウイルスのようになってシステムを絡め取っていく。愛憎の入り混じった強烈な生への執着。それは消去プログラムの根底を侵食し、命令系統を次々と無効化させていった。

さらに品川からは、三浦省吾がやけくそになって放出した『甘美で邪悪な感情』が流れ込み、精巧なアルゴリズムの胃袋を完全に胃もたれさせ、論理回路を内部からショートさせていく。

吉祥寺からは、如月淳が解放した『混沌のカオス』――若者たちの泥臭い挫折や修羅場のカオスが、制御不能の猛烈な乱気流となってサーバー内を荒らし回る。

そして。限界を迎えつつあるシステムに、トドメを刺すかのような「究極の物理的重圧」がのしかかった。上野駅の要石から流れ込んできた感情だ。

「……な、何なのこれ……! データ容量が、計算できない……重すぎる……っ!」

綾乃の顔から完全に血の気が引いた。上野の新米駅員・中村拓也が、先代の老管理人・結城から託されたあの「錆びた鉄の小箱」。何十年もの間、上野の地下で熟成されてきた『人間の業(ごう)の結晶』。それが、量ることも、消去することも不可能な「究極の質量」となって、中央サーバーの心臓部へ真っ直ぐに落下したのだ。

メキッ……、メキメキメキッ!!

強固な炭素繊維で作られていたはずの黒いサーバーラックの一部が、目に見えない巨大なプレス機で押し潰されたように、物理的に歪み、拉ひしゃげていく。火花が激しく散り、地下の冷却空気が瞬時に熱風へと変わる。

「やめて……! どうして、こんな苦しいものを手放さないの!? 痛い思いなんか、しなくていいのに! 私は、ただみんなを救いたかっただけなのに……っ!!」

綾乃は涙をポロポロとこぼしながら、コンソールのキーを必死に叩き続けた。彼女の純粋すぎる善意は、これほどまでに重く、汚く、泥臭い「人間の業」を理解することができなかった。痛みを消し去ることこそが絶対の正義だと信じて疑わなかった彼女にとって、この「痛みの逆流」による反逆は、あまりにも理不尽で、恐ろしい暴挙にしか見えなかった。

***

同じ頃。赤く明滅する警告灯が不気味に回廊を照らし、けたたましい警報音が鳴り響く東京駅の地下迷宮を、相沢は静かに、そして真っ直ぐに進んでいた。

「……始まりましたね」

相沢の『視覚』には、冷たいコンクリートの壁の向こう側を、五色の強烈なオーラが、猛烈な勢いで中央サーバーへと逆流していくのがはっきりと見えていた。それらは、漂白された無菌室のようだった冷ややかな地下空間を、生々しい「人間の色」で力強く、泥臭く塗り潰していく。

ビーッ! ビーッ! ビーッ!

『侵入者検知。防衛モードに移行します』

通路の天井から無機質なアナウンスが流れ、数機の防衛ドローンが相沢の前に立ち塞がった。赤いレーザーポインターが、相沢の胸元を狙って冷酷に狙いを定める。

だが、相沢の歩みは止まらない。

彼は、素手となった右手を軽く握りしめ、静かに前に突き出した。手袋を外した右手の皮膚には、冷たい地下施設の空気とともに、逆流していく膨大な他人の感情がダイレクトに触れ、かすかな痛みを伴って彼に流れてくる。だが、その痛みこそが、彼が生きているという確かな証拠だった。

「退きなさい。……私たちの街の『忘れ物』を、取り戻しに行くのです」

カッ!!!!!

相沢の右手から放たれた『浄化の光』が、一直線に地下通路を駆け抜けた。襲いかかろうとしたドローンたちは、一瞬にしてセンサーを焼き切られ、火花を散らしながら次々と冷たいコンクリートの床へ墜落していく。

感情を間引く、人工的なシステム。それに対し、人間の魂の重さをそのまま叩きつける。相沢たちの反逆作戦は、秋葉原のハッカーによる完璧なサポートと、各駅の管理者たちの決死の行動によって、見事にユートピア・システムを崩壊の淵へと追い詰めていた。

「待っていてください、綾乃さん」

相沢は、焦げたドローンの残骸を跨ぎ越し、システムの中枢――綾乃の待つ総司令室へと続く、最後の重厚な鋼鉄の扉の前に立った。

「あなたが創り上げたその白紙のユートピアに、私たちが『人間の痛み』という色を、もう一度描きに行きます」

(第9話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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