連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第10話:ノイズまみれの青空

第10話:ノイズまみれの青空
目安読了時間
約5分(約3,200文字)
小説ジャンル
サイバーパンク / SFファンタジー
主要登場人物
相沢、篠原綾乃、須藤陸、峰岸理沙、三浦省吾、影山リアム、如月淳、中村拓也
【あらすじ】相沢の浄化の光が優しく包み込んだのは、幼き日の哀しい呪縛だった。システムが機能を停止し、東京の空に極彩色の感情が還っていく。不器用な祈りの果てに、ノイズまみれの、泥臭くて美しい日常が戻ってくる。

カッ!!!!!

相沢の右手から放たれた、限りなく優しく温かい純白の光。それは暴走寸前だった巨大な中枢サーバー群を包み込み、そして、司令室の床で泣き崩れていた綾乃の体を静かに包み込んでいった。

「……あ……」

綾乃は、その圧倒的な光の中で、思わず目を閉じた。すべてを焼き尽くす苛烈な破壊を覚悟した彼女を待っていたのは、凍えるような冷たい無菌室の空気をすべて溶かす、春の陽だまりのような温もりだった。

光の中で、彼女の脳裏に一つの古い情景が浮かび上がる。三十年前、吉祥寺駅の片隅で、他人の強烈な感情のノイズに押し潰され、耳を塞いで泣き叫んでいた七歳の相沢。

『私が、いつか絶対に、相沢くんを助けてあげるからね。……相沢くんが、もう二度と他人の気持ちで傷つかない世界を、私が創ってあげるから』

無力だった幼い少女が胸に誓った、純粋で、悲しい祈り。彼女はその優しさだけを羅針盤にして、今日まで人生のすべてをシステム開発に捧げてきた。

『……もう、いいのですよ。綾乃さん』

優しい光の向こうから、相沢の声が響いた。

『私はもう、あの日の泣いていた子供ではありません。私たちは、傷つきながらも、泥臭く生きていけるのです。……だから、もう私を守るために、あなたの人生を犠牲にする必要はないのですよ』

「相沢、くん……」

相沢の右手から溢れ出た光は、綾乃の心の一番深い場所に澱おりのように溜まっていた「無力感」と「悲しい強迫観念」を、雪解け水のようにフッと溶かして消し去っていった。

システムを根底で制御していた、彼女の悲痛な祈りが沈黙した瞬間。限界を迎えて赤く激しく明滅していた数千のサーバーの警告灯が一斉に、ふっと穏やかな緑色へと変わり、そして静かに、眠りにつくように次々と電源が落ちていった。

プツン、プツン、プツン。

メルトダウン寸前だったユートピア・システムが、完全に機能を停止した。同時に、行き場を失って中枢サーバーに渦巻いていた、東京中の数千万人分の感情が、システムの巨大な回収ダクトを逆流し、地上へ向かって静かに、ゆっくりと解き放たれていった。

***

東京の空。

気味が悪いほどに雲一つなかった、人工的な「白紙の青空」が、突如として大きく揺らいだ。空を覆っていた目に見えない漂白の膜が引き裂かれ、そこから様々な色の絵の具をぶちまけたような、巨大で極彩色のオーラが広がっていく。それは、システムから解放された「奪われていた感情」が、本来の持ち主たちの元へと還っていく、光の雨だった。

「うおっ……!?」

新宿駅、東口広場。うだるような熱気の中を行き交う人々が、ふと立ち止まり、まるで長い夢から覚めたように頭を振った。仏像のようだった無機質な顔に、汗の不快感や、「疲れた」「腹が減った」「アイツ、うざい」「でも、頑張るか」といった、泥臭くて生々しい日常の感情が戻ってくる。

「……あー、やっぱりうるせえ街だ。クソが」

雑踏の真ん中で、須藤は首にかけていたノイズキャンセリングヘッドホンを、耳元に乱暴に装着した。鼓膜を直接突き破るような数百万人の不協和音。だが、その耳障りな騒音を受け止める彼の口角は、ほんの少しだけ上がっていた。

「こうでなくちゃ、掃除のしがいがねえ」

***

巣鴨、地蔵通り商店街。

お年寄りたちが、再び膝の痛みを愚痴り合い、塩大福の列で小言を言い合い、他愛もない世間話に花を咲かせ始めた。地下の遺失物取扱センターの入り口で、深く息を吸い込んだ峰岸理沙は、鼻をスンと動かした。お香の煙、おばあちゃんたちの湿布の匂い、塩大福の甘じょっぱい香り。そして、不純物を含んだ「複雑で泥臭い人生の匂い」が戻ってきた。

「……うん。やっぱり巣鴨は、この匂いじゃないとね」

***

上野駅の地下。

地上の嵐が過ぎ去った気配を感じ、静まり返った事務所へと戻った中村は、空っぽにされていた巨大な保管庫に、再び「ずっしり」とした歴史の業の重さが戻ってくるのを全身の肌で感じていた。それは、この上野という「終着駅」を通過していった名もなき人々の、泥臭くて重い人生の痕跡そのものだった。

「……よかった。……ちゃんと、重いや……」

彼は、結城が愛用していた古い革張りの椅子に深く腰掛け、引き出しから取り出した白い便箋に、静かに万年筆を走らせ始めた。

 ――拝啓、結城忠信様

***

品川の高級フレンチ『Le Miroir』。

厨房に立つ三浦省吾の鼻腔を、客たちが放つ「野心」や「嫉妬」といった強烈なスパイスの匂いが再びくすぐり始めた。彼は久しぶりの刺激にゴクリと喉を鳴らした、次の瞬間。

「ひぎぃッ!?」

脳裏に鮮明にフラッシュバックしたのは、吉祥寺の『鬼』こと相沢に、真っ白な布手袋を喉の奥深くまで容赦なくねじ込まれた記憶だ。あの内臓が裏返るような強制浄化の地獄の苦しみ。己の我欲もろとも初期化された恐怖の記憶が、三浦の全身から滝のような冷や汗を噴出させた。

「シェフ? どうかなさいましたか?」

「……い、いや、なんでもない。……私はこれより、純粋な食材のみを用いた、心温まる極上のコンソメスープ作りに全力を注ぐ。他人の感情などというゲテモノに頼る時代は終わったのだよ!」

彼は誘惑を振り払うように銀縁眼鏡をキリッと押し上げ、真っ当な料理人としてフライパンを力強く握りしめるのだった。

***

秋葉原。

電気街の中央通りには大勢の買い物客や観光客が行き交い、街の賑わいを取り戻していた。

影山リアムは、夕暮れの日差しが差すラジオ会館の屋上フェンスに背中を預けていた。リアムの『電子視覚』に映る世界が、整然とした冷たいコードから、欲望や承認欲求にまみれた「スパゲッティコード」へと戻っていた。

「……あーあ。また非効率でバグだらけの世界に逆戻りだ」

リアムはエナジードリンクを喉に流し込み、呆れたように呟いた。

だが、古びたアナログのカメラを撫でる彼の指は、どこか楽しげに小さく踊っていた。

***

東京駅地下 統括本部 総司令室。

すべてのサーバーが機能を停止し、赤い警告灯は消え去り、非常用の薄暗い照明だけが灯る無音の空間。

篠原綾乃は、床に両膝をついたまま、両手で顔を覆って泣いていた。だが、それは絶望の涙ではなかった。三十年間、彼女の小さな肩にのしかかり続けていた「相沢を救わなければならない」という重苦しい強迫観念から解放された、雪解けのような安堵の涙だった。

「……ごめんなさい、相沢くん。私、あなたのことを全然分かっていなかった。あなたがもう、こんなに強くなっていたなんて」

あの日怯えて泣いていた小さな少年は、今や、無数の人々の痛みに寄り添い、導く、立派な大人になっていた。

相沢は、床に落ちていた真っ白な布手袋をゆっくりと拾い上げ、丁寧に両手に嵌め直した。 そして、泣きじゃくる幼なじみの前に静かに屈み込み、右手をそっと差し出した。

「綾乃さん」

相沢の顔には、一人の人間としての、深く温かい微笑みが浮かんでいた。

「あの日、一緒に泣いてくれたあなたの優しさがあったからこそ、私は今日まで、心を閉ざしながらも生き抜いてこられたのです。……ありがとう。あなたは間違いなく、私の英雄でしたよ」

その言葉に、綾乃は顔を上げ、弾かれたように相沢の右手を、両手で強く強く握りしめた。

「……うんっ、うんっ……!」

大粒の涙をこぼしながら、綾乃は子供のように何度も何度も頷いた。

白紙に漂白されようとしていた東京は、相沢たちと、そして一人の開発主任の不器用な祈りの果てに、再びノイズまみれの、泥臭くて愛おしい日常を取り戻したのだ。

「さあ、地上へ帰りましょうか。私たちの、騒がしい街へ」

相沢は、幼なじみの手を優しく引き、ゆっくりと立ち上がった。分厚い鋼鉄の扉の向こうからは、地上を行き交う何百万人もの足音や、電車の発車メロディの音が、微かな、しかし確かな「生命の息吹」として聞こえ始めていた。

(第11話 最終話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第11話(最終話):失くしたものが帰る場所
システム崩壊から一ヶ月。騒がしい日常を取り戻した吉祥寺の遺失物取扱センターに、ある女性が訪れる。過去の呪縛から解放された彼女が選んだ新たな道とは。迷子になった感情が集まる場所で紡がれる、静かなエピローグ。
異能SF・現代ファンタジー連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編』シリーズ(全11話)
痛みのない世界は本当に幸せですか? 負の感情を漂白するユートピア・システムが覆う東京駅。失われかける人間の心を取り戻すため、相沢そして歴代の能力者たちが集結する!シリーズ最大の総力戦にして涙のグランドフィナーレ。第8シーズン全11話まとめ