連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第8話(最終話)~ノイズ・キャンセリング・オフ~

あの「黒い霧」の暴走から一週間。

新宿駅東口、遺失物取扱センター。

吹き飛んだデスクは新調され、ひび割れた壁も修復された。

破壊された金庫は……まあ、相変わらずそこにあるが、以前のような不気味な唸り声は上げていない。

中身が空っぽになったおかげで、今はただの物言わぬ鉄の箱だ。

俺の顔にはまだ白いガーゼが貼られているが、業務には復帰している。

首にかけているのは、買い替えたばかりの新品のヘッドホン。

最新モデルのハイエンド機だ。

「……チッ、相変わらずうるせえ街だ」

俺は眉間の皺(しわ)を揉みほぐしながら、端末の画面をタップした。

文句は出る。

だが、以前のように胃液が逆流するような、殺気立った悲壮感はない。

ただ単に「うるさいものはうるさい」という、事実確認に近い感覚だ。

***


「あの、すみません」

午後八時。

ギターケースを背負った青年が、力なく入ってきた。

名前はケンジ。二十代前半だろうか。

目元には濃い隈(くま)があり、背負っているギターケースがやけに重そうに見える。

「駅でレコーダーを落としたみたいで……届いてませんか。銀色の、古いヤツなんですけど」

俺は端末を操作し、保管庫を確認した。

該当する物品はある。

俺は保管庫から、その古ぼけたICレコーダーを取り出した。

塗装が剥げ、ボタンの文字も消えかかっている。

だが、それに付着している感情は――「砂嵐」だった。

ザラザラとした不快なノイズ。

その奥から、微かに『まだ歌いたい』『でも無理だ』『才能がない』という、葛藤のメロディが聞こえてくる。

「これか?」

俺はレコーダーをカウンターに置いた。

ケンジの顔がパッと明るくなる――かと思ったが、逆だった。

彼は実物を見た瞬間、顔を引きつらせ、後ずさったのだ。

「あ……」

彼は手を伸ばしかけて、震える指を握りしめた。

ギターケースのベルトをギュッと掴み、視線を床に落とす。

「……やっぱり、いいです」

「あ?」

「いらないです。……処分してください」

ケンジは自嘲気味に笑った。

「田舎に帰るんです。どうせ売れないし、才能ないし。……そんなもん持ってたって、惨めになるだけなんで」

彼はレコーダーから目を背け、踵を返そうとした。

自分の夢を、ここでゴミとして捨てていく気だ。

「……待て」

俺は立ち上がり、逃げるように去ろうとするケンジを呼び止めた。

「処分するかどうかは、俺が決める」

「え? いや、俺がいらないって……」

俺はカウンター越しに身を乗り出した。

いつもならここでゴム手袋を取り出すところだが、俺はその手を止めた。

「手を出せ」

「は?」

俺は返事を待たずに、素手でケンジの手首をガシッと掴んだ。

バチッ。

皮膚と皮膚が直接触れ合い、いつもより鮮明な信号が流れ込んでくる。


《 共有された視界 》

狭い六畳一間のアパート。カップ麺の容器。

誰も立ち止まらない路上ライブ。

冷たい視線。罵声。

『いつまで夢見てんだよ』という友人の言葉。

そして、それでも夜中に布団の中で歌詞を書く、熱病のような衝動。

ザァァァァァ……!

砂嵐のような自己否定のノイズが、俺の脳を引っ掻き回す。

うるさい。不快だ。

だが――。

(……遮断するな。流せ)

あの、食えない笑顔の駅員の言葉が脳裏をよぎる。

『耳を傾けて、流してやるのです』

俺は目を閉じ、深く息を吐いた。

ノイズを壁で弾き返すんじゃない。

川の水を受け流すように、自分という管を通して通過させる。

砂嵐だけをフィルターにかけ、その核にある「音」だけを拾い上げる。

そこにあったのは、純粋すぎで、だからこそ脆くて壊れそうな「音楽への渇望」だった。

***


ドンッ。

俺は目を開け、レコーダーをカウンターに叩き置いた。

掴んでいた手を離す。

「おい」

「は、はい……」

ケンジが怯えたように振り返る。

俺は睨みつけるように言った。

「……悪くねえ音だ」

ケンジが目を見開く。

「え……?」

「才能があるかは知らねえよ。俺は音楽評論家じゃねえからな。ただ……この中に入ってる音は、まだ死んでねえぞ」

俺はトントンと、人差し指でレコーダーを叩いた。

「雑音(まよい)が多すぎて聞こえにくいがな。……持って帰れ」

俺はレコーダーを放り投げ、ケンジの胸に押し付けた。

ケンジは慌ててそれを受け止める。

その手の中で、ICレコーダーを覆っていた「砂嵐」がスゥッと消え、澄んだ光だけが残った。

「ここはゴミ捨て場じゃねえ。……次に落としたら、その時は俺がへし折ってやる」

ケンジは呆気にとられた顔をしていたが、やがてレコーダーを強く、大切そうに握りしめた。

その目に、生気が戻る。

「……っす。……ありがとうございました!」

ケンジは深く頭を下げ、逃げるように、けれど確かな足取りで店を出て行った。

ギターケースの重さが、少しだけ軽くなったように見えた。

「……フン。二度と来んな」

俺は椅子に座り直し、冷めたコーヒーを啜った。

***


業務終了後。

俺は帰り支度を済ませ、集荷コーナーへ向かった。

手には、小さな小包を持っている。

宛先は『吉祥寺駅 遺失物取扱センター 相沢殿』。

中身は、デパートで買った高級なコーヒー豆のセットだ。

そして、一枚のメモ書き。

『借りは返す。あの泥水みたいなインスタントは二度と飲むな。
……あと、余計なお世話だ』

俺は「移送品」の箱に、乱暴にそれを放り込んだ。

これでチャラだ。文句あっか。

***


新宿駅、東口改札前。

地上への階段を上がり、夜の街へと出る。

ネオンが煌めき、巨大ビジョンの広告が明滅する。

相変わらずの喧騒。

行き交う人々の頭上には、『疲れた』『楽しい』『寂しい』『愛してる』『殺したい』という、無数の感情のノイズが溢れ返っている。

俺は首にかけていたヘッドホンを装着した。

いつものように、ノイズキャンセリングのスイッチに指をかける。

世界を遮断し、静寂の中に逃げ込むために。

だが。

俺の指は、スイッチの上で一瞬止まった。

(……まあ、たまにはな)

俺はスイッチを逆方向にスライドさせた。

『アンビエント(外音取り込み)モード、オン』

電子アナウンスと共に、マイクが拾った外部の音が、クリアな音質で耳に飛び込んでくる。

ドッという人波の音。

笑い声。怒鳴り声。靴音。

ノイズが波のように押し寄せてくる。

不快だ。うるさい。耳障りだ。

だが、それは間違いなく、この街で懸命に生きている人間たちが発する「生の音」だった。

俺は雑踏を見上げ、フッと小さく笑った。

「……ああ、うるせえ街だ」

俺はポケットに手を突っ込み、ノイズの海へと歩き出した。

新宿の夜は、まだ始まったばかりだ。

(『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』 完)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。


Next Season…
連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』

「私、人助けがしたいんです」
次なる舞台は、おばあちゃんの原宿・巣鴨。
他人の感情を「匂い」で感じ取り、我が身に吸い込んで浄化する新人係員・峰岸理沙。
その献身的な「善意」が、やがて彼女自身を蝕む猛毒に変わるとも知らずに……。
温かい人情の街で静かに進行する、美しくも残酷な崩壊の物語。お楽しみに!


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