連載小説『感情の忘れ物5 品川・三浦省吾編』第4話 ~肉料理:捕食者のロースト(Viande)~

2027.01.03 品川 『Le Miroir』個室

「ん~っ! 何これ、とろける~っ!!」

理沙の歓喜の声が、防音の効いた個室に響いた。

彼女の目の前にあるのは、メインディッシュの「蝦夷鹿のロースト 赤ワインとカシスのソース」。

ナイフを入れただけで繊維がほどけるほど柔らかい肉と、濃厚で香り高いソースのマリアージュ。

理沙は一口食べるたびに、頬を紅潮させ、うっとりとした表情になる。

「幸せ……! こんな美味しいお肉、生まれて初めてかも……!」

一方、対面に座るリアムは、ナイフとフォークを動かしながらも、複雑な表情で皿を見つめていた。

確かに美味い。美味すぎる。

だが、それは自然な美味しさではない。食べた瞬間、脳内の快楽物質が強制的に分泌されるような、ドラッグじみた「作られた美味さ」だ。

Analyzing Food…
>Taste: Excellent
>Effect: Dopamine Surge (High Warning)
>Ingredient: Unknown Energy Detected

(……おかしい。ただの料理で、こんな異常な反応が出るか? まるで料理そのものが『感情』で味付けされているみたいな……)

「……ちょっとトイレ」

リアムは理沙に短く告げて席を立ち、重厚なドアを開けた。

そして、その一瞬の隙にメインダイニングの様子を素早くスキャンした。

Scanning Targets (Customers)…
>Target A (Man, 50s): Emotion = NULL (Void)
>Target B (Woman, 30s): Emotion = Very Low (Exhausted)
>Target C (Couple): Emotion = ERROR (Damaged / Fragmented)

(……やっぱりだ)

リアムの背筋が凍った。

この店の客たち。

みんな、笑顔で食事をしているように見えるが、その内面は『空っぽ』だ。

まるで、感情という生きるエネルギーを根こそぎ吸い取られた後の、抜け殻(NPC)のように。

***


「ねえ、リアムくん。さっきから難しい顔して。美味しくないの?」

理沙が心配そうに覗き込んでくる。

「……いや、美味しいよ。美味しすぎるくらいだ」

リアムは声を潜めた。

「ねえ理沙姉。……この店、なんか変じゃない?」

「え? そう? ちょっとシェフがイケメンすぎて緊張するくらいで、普通の素敵な良いお店じゃない?」

理沙は能天気にローストを頬張るが、ふと動きを止めた。

「……言われてみれば、さっきから、なんか胸がザワザワするかも。巣鴨で、悪いツボを売りつけられそうになった時みたいな……嫌な予感がする」

防音の効いた個室で冷静さを取り戻すにつれ、理沙の特異な嗅覚と、巣鴨で揉まれた経験則が、微かな警鐘を鳴らし始めていたのだ。

目の前の美味しすぎる料理から漂う、不自然な「作られた幸福の匂い」に対して。

「帰ろう。デザートはいい」

リアムがナプキンを置き、立ち上がろうとした、その時。

コンコン。

静かな、しかし拒絶を許さない鋭利なノック音と共に、個室のドアが開いた。

「失礼いたします。……お食事は、お楽しみいただけていますでしょうか?」

現れたのは、総料理長の三浦省吾だった。

彼は、給仕のワゴンを押しているわけでも、伝票を持っているわけでもない。

ただ、手ぶらで、ゆっくりと入ってきた。

「え、ええ! すっごく美味しいですシェフ! もう最高です!」

理沙が慌てて笑顔を作り、少し緊張した様子を見せる。

三浦は、ゆっくりと理沙の席の横に歩み寄った。

その瞳は、もはや銀縁眼鏡の奥で隠しきれないほど、ギラギラと赤く発光していた。

「それは良かった。……ところで峰岸様。先ほどから気になっていたのですが」

三浦の視線が、理沙が椅子の背もたれに置いているバッグに釘付けになる。

そこから立ち上る、巣鴨の老人たちの「感謝の芳香(ヴィンテージ・アロマ)」が、個室内に充満し、三浦の理性をとっくに焼き切っていたのだ。

「そのバッグに付いている『香り』……。あまりにも素晴らしくて、厨房にいても気が気じゃなかったんですよ。仕事が手につかないほどにね」

「へ? 香り? 香水なんてつけてませんけど……。あ、もしかして、お線香の匂いとか移っちゃいました?」

理沙が自分の袖口をくんくんと嗅ぐ。

「いえ、貴女には分からないでしょう。これは、私のような『美食家』にしか分からない、極上の熟成香です」

三浦が一歩、距離を詰めた。

その瞬間、リアムの脳内で警報(アラート)が最大音量で鳴り響いた。

Warning! Hostile Intent Detected!
Target: MIURA -> RISA
Action: PREDATION (捕食)

「理沙姉! 逃げてッ! そいつ、ヤバイ!!」

リアムが叫び、テーブルを蹴って理沙を庇おうとした。

だが、遅かった。

「――少しだけ、『味見』させていただけますか?」

三浦の動きは、人間離れしていた。

これまでの「忘れ物をネコババする」ような姑息な手段ではない。

真正面から、流れるような動作で、理沙のバッグに手を伸ばした。

「きゃっ!?」

理沙が反射的にバッグを抱え込もうとするが、三浦の指がバッグの表面に触れた瞬間。

ジュワァァァ……ッ!

バッグの表面から、金色の光の粒が、湯気のようにフワァッと舞い上がった。

「あぁ……。素晴らしい……!」

三浦は恍惚とした表情で、その光の粒を鼻から深く吸い込んだ。

ほんの一呼吸分。それだけで、彼の全身の筋肉がビクンと膨張し、上質なコックコートが悲鳴を上げて張り詰めた。

「うっとりするような『善意』の味だ。……これは、コース料理のメインに相応しい」

三浦がゆっくりと顔を上げ、理沙とリアムを見下ろした。

その顔には、もはや知性的なシェフの面影はなかった。

そこにいたのは、食欲という本能のみで動く、飢えた獣そのものだった。

「さあ、フルコースの始まりだ。……残さず、いただくとしよう」

個室の重厚なドアが、ドスンと閉まった。

逃げ場のない密室で、捕食者と獲物が対峙する。

(第5話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。


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