連載小説『感情の忘れ物7 上野・結城編 ~終着駅の重さ~』第9話:老管理人の忘れ物(中編)

上野駅地下深く。

遺失物取扱センターの最奥にある広大な保管庫。その一角で、老管理人の結城は両膝を床につき、荒い息を吐いていた。

彼の両腕には、四十年前の自分自身が切り捨てた「強烈な後悔」と「妻への恨み」が、巨大な岩盤のような重圧となってのしかかっている。骨が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。他人のどんな重い感情にも耐えてきた彼の手が、自分自身の醜い業ごうの重さに押し潰されようとしていた。

だが、意識が遠のきかけた彼の目に飛び込んできたのは、そのドロドロとした黒い重力の底に敷かれていた、一通の古い封筒だった。

『愛する、あなたへ』

亡き妻・小百合の、見慣れた丸みを帯びた字。結城は、震える太い指先で封筒の口を破り、中から便箋を引き出した。経年劣化で少し黄ばんだ紙。それに触れた瞬間。

「……あ……」

結城の目が見開かれた。紙という物質の軽さではない。能力『感情の重量計(スケール)』を通して、便箋に込められた小百合の感情が、直接彼の両手に流れ込んでくる。

それは、彼を押し潰そうとしている黒い重圧に真っ向から抗うような、別の「重さ」だった。まるで、冷たい暗い海底に差し込んだ、一筋の温かい光。深く、静かで、どこまでも包み込むような、『海のような愛情』の質量。

結城は、溢れそうになる涙を堪えながら、薄暗い電球の光の下で、妻の遺した手紙に視線を落とした。

***

『愛するあなたへ。 この手紙を読んでいるということは、あなたはついに、この木箱の中にある「自分の忘れ物」と向き合ってくれたのですね。 まずは、謝らなければなりません。 勝手にあなたの木箱を開けて、この手紙を底に隠してしまってごめんなさい。 でも、どうしても伝えておきたかったのです』

便箋の文字は、病床で書かれたのだろう、ところどころ弱々しく震えていた。だが、そこに込められた意思は、決して揺らいではいなかった。

『私は、知っていました。 あなたが、私を看病するためにパリへの赴任を諦め、本社からこの上野の地下へ異動した日。 あなたが私に優しい笑顔を向けてくれた裏で、どれほど深い絶望と、私に対する「恨み」を抱えていたかということを。

隠せていると思っていましたか? 夫婦ですもの。あなたの少しの強張りも、声のトーンも、私には痛いほど伝わっていました。 自分のせいで、愛する人の一番の夢を奪ってしまった。 あなたを縛り付けるくらいなら、いっそ私が消えてしまえばいいと、何度も泣きました』

「小百合……」

結城の口から、擦れ声が漏れた。隠し通せていたと思っていた。自分は完璧に「優しい夫」を演じきり、黒い感情はこの木箱に封印したのだと信じていた。だが、彼女は全てを分かった上で、結城の「優しい嘘」を受け入れてくれていたのだ。

『あなたは、自分の中に生まれた真っ黒な感情を許せなかったのでしょうね。 私を恨んでしまう自分が嫌で、その醜い心を、無理やり切り離してこの箱に捨ててしまった。 それからのあなたは、本当に、完璧な優しい夫でした。 でも……私は、少しだけ寂しかった。 私がどんなにわがままを言っても、あなたは決して怒らず、ただ微笑むだけになってしまったから。 怒りも、後悔も、全部ひっくるめての「あなた」だったのに』

結城の胸に、鋭い痛みが走った。そうだ。あの箱に感情を捨ててから、自分は「痛みのない人形」になっていたのかもしれない。妻を真っ直ぐに愛するためだと言い訳をして、本当は、生々しい人間関係の摩擦から逃げていただけだったのだ。

手紙は続く。

『でもね、あなた。 上野駅での仕事の話をしてくれる時のあなたの目は、昔、鉄道の夢を語っていた時と同じくらい、真剣で、誇りに満ちていましたよ。

「今日、重い希望を持った少年の切符を預かったよ」

「戦争を生き抜いた人の、泥みたいな執着に触れたんだ」

そう言って、自分の分厚い手を見つめるあなたを見るのが、私は大好きでした。 パリで世界を繋ぐことはできなかったかもしれないけれど。 あなたはこの上野という終着駅で、名もなき人々の「重い人生」を受け止め、過去と未来を繋ぐ、誰よりも立派な仕事をしている。 私は、そんなあなたの妻であることを、心から誇りに思っていました』

ポタリ、と。結城の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、便箋を濡らした。

四十年間、一度も流せなかった涙だ。妻の葬儀の日ですら、空っぽになっていた彼は泣くことができなかった。だが今、凍りついていた心の奥底から、熱いものが堰を切ったように溢れ出していた。

『あなたはきっと、この箱を開けるのを恐れているのでしょう。 自分の醜さに押し潰されてしまうかもしれないと、怯えているのでしょう。 だから、私がこの手紙を置いておきます。

 あなたの後悔も、私への恨みも、決して醜いものではありません。 それは、あなたが私を愛そうと必死に足掻いてくれた、優しい痛みの証です。 どうか、自分を許してあげてください。 長い間、他人の重さを背負い続けてきたあなたの手なら、きっと、自分の重さも受け止められるはずです。

 長い間、一人にさせてしまってごめんなさい。 そして、私の人生を、温かい優しさで満たしてくれて、本当にありがとう。

 心からの愛を込めて。 小百合より』

***

「あ……ああ……あああぁぁぁ……ッ!!」

地下の保管庫に、老管理人の慟哭が響き渡った。結城は便箋を胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。

腕にのしかかっていた「強烈な後悔」と「妻への恨み」の重力。それは消えたわけではない。だが、小百合の手紙から伝わってきた「海のように深く、全てを許す愛情の重さ」が、その黒い泥と混ざり合い、中和していく。

恨んでいた。後悔していた。でも、それ以上に、彼女を愛していた。彼女がいたから、自分はこの上野で、他人の人生の重さに寄り添うことができたのだ。

「すまない……小百合。私こそ、君を一人にしてしまっていた……。自分の醜さから逃げて、君の本当の寂しさに向き合おうとしなかった……」

結城は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

彼は、木箱の底でドロドロと渦巻いている、二十五歳の自分の感情――「黒い泥」を見つめた。もう、目を背けない。これは切り捨てるべきゴミではない。自分が小百合と共に生きた、痛ましくも愛おしい人生の一部なのだ。

結城は、大きく息を吸い込んだ。そして、両手を広げ、その「自分自身の人生の重さ」を、真っ向から抱え込んだ。

ズシィィィンッ……!!

途方もない質量が、再び結城の両腕にのしかかる。関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。だが、結城の顔に先ほどまでの「恐怖」や「絶望」はなかった。

「……重いな。だが……持てない重さではない」

結城は、歯を食いしばりながら、ゆっくりと立ち上がった。

四十年間、何万という人々の感情を量り、鍛え上げられてきた彼の太く固い両手は、今この瞬間のためにあったのだ。自分の罪も、後悔も、愛も、全てをこの両手で受け止める。

「……私の人生は、決して間違ってなどいなかった」

結城は、木箱をしっかりと抱え上げたまま、静かに微笑んだ。その顔には、長年の呪縛から解放された、清々しい安堵の光が満ちていた。

***

カチ、カチ、カチ……。

センターの奥から聞こえる柱時計の音が、いつもより優しく響いている。結城は、妻の手紙をもう一度丁寧に折りたたみ、大切に胸のポケットにしまった。そして、空になった木箱を棚に戻す。

彼自身の感情は、もはや箱の中にはない。四十年ぶりに彼自身の心の中へと還り、血肉となって静かに脈打っている。悲しみも、後悔も、そして温かい愛情も、全てがそこにある。

「……さて」

結城は、自分の両手を見つめ、ギュッと拳を握りしめた。不思議と、今まで感じていた「他人の重さ」の残滓が消え、スッキリと軽くなっているように感じた。

定年退職まで、あと二日。上野の老管理人は、ついに自身の「忘れ物」を回収し、最後の仕事へと向かう準備を整えたのだった。

(第10話 最終話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

連載小説『感情の忘れ物7 上野・結城編 ~終着駅の重さ~』第10話(最終話):老管理人の忘れ物(後編)
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