2027年、夏。
東京は、気味が悪いほどの「快晴」に包まれていた。空には雲一つなく、吸い込まれそうなほどに抜けるような青空が、どこまでも広がっている。茹だるような陽射しはじりじりと容赦なく照りつけ、街路樹の生い茂る濃い緑の葉が八月の熱い風に揺れて、ぎらぎらと光を反射させていた。だが、その完璧すぎる平穏さは、どこか人工的で、胸を圧迫するような息苦しい違和感を孕んでいる。アスファルトから立ち上るはずの陽炎すらもどこか静止しているようで、それはまるで、巨大なアクリルケースの中に閉じ込められた、温度を持たない精巧なジオラマのようだった。
『吉祥寺駅 遺失物取扱センター』
磨りガラスの入ったドアの向こう側、紅茶の香りが漂う静謐な室内で、カウンターの奥に座る相沢は、真っ白な布手袋をはめた手を静かに組み、窓の外の景色をじっと見つめていた。
「相沢さん……今日、なんか街がすごく変です」
背後から、戸惑うような若い声がした。声の主は、十五歳の少年、如月淳だ。彼は数ヶ月前、自身の持つ特殊な能力と悪意の呪縛から解放され、新宿の金庫に眠っていた本当の心を取り戻したばかりだった。今は学校が休みの日になるとこうして吉祥寺のセンターに通い、相沢のもとで「能力の正しいコントロール」を学ぶための修行を積んでいる。
淳はカウンターの横に立ち、不安げな表情で外を行き交う人々を見つめていた。
「みんなの色が……全然見えないんです。まるで、漂白剤で洗われたみたいに、真っ白で……空っぽみたいだ」
淳の言葉に、相沢は静かに頷いた。
相沢と淳の持つ特異な『視覚』には、行き交う人々の感情が「色」や「形」として視認できる。普段なら、若者たちの浮かれたピンク色のオーラ、仕事に疲れたサラリーマンが足元に引きずる淀んだ灰色の靄、あるいは恋人たちの些細な喧嘩から生じるトゲトゲとした赤い火花など、無数の色が複雑に絡み合い、雑多で騒がしいパレットのように見えているはずだった。
だが、今は違う。色がないのだ。
サンロード商店街へ向かう人々も、井の頭公園へと歩く家族連れも、皆一様に穏やかな微笑みを浮かべて歩いている。誰一人として急いで走る者はなく、肩がぶつかっても怒鳴り合うこともない。
「すみません」「いえ、こちらこそ」
定型文のような笑顔で会釈を交わし、ただすれ違っていく。争いがない。悲しみがない。怒りがない。焦りすらない。一見すると、それは誰もが夢見る、争いのない完璧な平和の光景――『理想の世界』に見えるかもしれない。
しかし、かつて他人の感情のノイズから身を守るために自分自身の心を「瓶」に閉じ込め、感情を殺して生きていた時期がある相沢だからこそ、肌を刺すような恐ろしさとともに理解できるのだ。彼らの心は今、穏やかなのではない。感情の起伏そのものを、根こそぎ奪われているのだ。
「ええ、淳君。君の言う通りです」
相沢は、手元の分厚い革張りの台帳を開いた。
「今日で三日目です。この三日間、吉祥寺のセンターには、たったの一件も『感情の忘れ物』が届いていません。人々が感情の起伏を失い、落とすべき『重い感情』そのものが存在しなくなっているのです」
プルルルル……。
センターの静寂を破り、相沢の業務端末から「管理者専用グループ通話」の着信音が鳴り響いた。発信元は、新宿センターの須藤だ。相沢が通話ボタンをタップすると、ひどく苛立った声がスピーカーから響いた。
『おい、相沢。そっちの街はどうなってる? こっちは異常事態だ』
「異常事態、とは?」
『音がねえんだよ。新宿の街から、いつもの喧しい音が消えやがった』
新宿駅、東口コンコース。須藤は、最新型のノイズキャンセリング・ヘッドホンを首に下ろし、呆然と行き交う人波を見つめていた。本来なら、ここを行き交う群衆からは『疲れた』『死にたい』『金がない』といった何百万人もの不協和音が、鼓膜を直接揺さぶる轟音となって須藤を襲うはずだ。
だが今は、ヘッドホンを外して無防備な状態になっても、不気味なほどの「無音」だった。 行き交う人々は皆、仏像のような穏やかな笑みを浮かべ、淡々と歩いている。アルタ前の広場にたむろする若者たちからも、歌舞伎町へ向かう欲望にまみれた大人たちからも、ドロドロとした低周波は一切聞こえない。
『……静かすぎて、逆に頭がおかしくなりそうだ。吐き気がする。まるで街全体に巨大なノイズキャンセリングがかけられてるみたいじゃねえか。てめぇの仕業か? またデカい浄化でもぶっ放したのか?』
「いいえ。私ではありません。私の浄化は悪意を祓うだけで、人間の感情そのものを間引くようなことはしません」
『じゃあ、なんだってんだ。この気味の悪りぃ静寂は』
その時、同じグループ通話の回線に、巣鴨の峰岸理沙が半泣きの声で割り込んできた。
『あ、相沢さん! 須藤さんも! どうしよう、巣鴨がおかしいんです!』
通話越しに響き渡った理沙の悲鳴は、パニック寸前だった。ヘッドホン越しに大音量を聞かされた須藤が『おい巣鴨、耳元で大声出すな!』と文句を言っているのが聞こえるが、理沙はそれどころではないようだった。
『お年寄りたちが、誰も愚痴を言わないんです! 膝が痛いとも、寂しいとも言わなくて、ただニコニコ座ってるだけで……。それに、匂いが……街から「匂い」が消えちゃったんです!』
理沙の「嗅覚」も、人々の感情の起伏を捉えられなくなっていた。巣鴨の地蔵通り商店街。普段なら、お香や塩大福の匂いに混じって、人々の「不安」や「哀愁」、あるいは家族を想う「温かい愛情」の匂いが、複雑に絡み合っているはずの街だ。それが今は、無臭のアルコールスプレーを街中に大量に撒かれたかのように消臭されているという。
「理沙さん、落ち着いてください。新宿も吉祥寺も同じ状況です。街の人々から、何らかの理由で『負の感情』が強制的に吸い上げられているようです」
相沢は冷静に状況を分析し、告げた。淳も、相沢の横で表情を固くこわばらせ、通話を聞いている。
『でも、そんなこと……誰が、どうやって?リアムくんのハッキングですか?』
「いいえ。彼はデジタルなコードには干渉できますが、これほど広範囲かつアナログな人間の感情を、一斉に漂白するような力はありません」
その時、センターの固定電話がけたたましく鳴り響いた。相沢は端末のスピーカーをオンにしてグループ通話を繋いだまま、受話器を取る。
「はい、吉祥寺センターです」
『あ、あの、相沢さんでしょうか!? 私、上野の遺失物取扱センターの中村と申します! 結城さんの後任の……!』
電話の主は、上野駅の遺失物取扱センターに赴任したばかりの青年駅員、中村拓也(なかむら ・たくや)だった。彼は先月、長年上野の地下を守り抜いた老管理人・結城が定年退職した際、このセンターを引き継いだ一般の駅員だ。
「どうしましたか、中村さん。落ち着いて状況を教えてください」
『ほ、保管庫が……! 結城さんから引き継いだ、あの巨大な保管庫が……空っぽなんです!!』
(第2話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

