「空っぽ? 品物が盗まれたのですか?」
相沢が中村に問いただす。
『違います! 物はあります! 古い硬券切符も、錆びたオイルライターも、壊れた懐中時計も、全部棚にあるんです! でも……気配が、ないんです!』
中村の声は、パニックと恐怖に震えていた。
『結城さんから、あの保管庫には「昔の人たちの、重苦しくて、でも温かい歴史の気配」が漂っていると聞いていました。私はただの新人駅員ですが、赴任した時から、言葉では説明できない重みのようなものを、確かに肌で感じていたんです。ここには、過去を生きた人々の目に見えない思いが詰まっているんだと』
中村は、荒い息を吐きながら続けた。
『でも……今朝、保管庫の扉を開けたら、あの重苦しい空気が、まるで巨大な掃除機で根こそぎ吸い出されたみたいに、完全に消滅していたんです! 今あそこにあるのは、ただの古いガラクタの山です。結城さんからは「もし自分の手に負えないような、不思議なことが起きたら、吉祥寺の相沢さんに相談しなさい」と引き継がれていて……だから、お電話しました!』
その報告を聞いた瞬間、相沢の背筋に、氷を滑らせたような恐ろしい悪寒が走った。
「……過去の感情まで、吸い上げられている……?」
街を行き交う「現在」の人々のストレスや怒りだけではない。上野の地下に何十年も封印され、結城がその太く固い両手で守り抜いた「過去」の感情すらも、根こそぎ奪われている。
相沢の顔に、かつてないほどの緊張が走った。傍らで見守る淳も、事の重大さに気づき、息を呑む。
『おい相沢、それってどういうことだ?』
須藤が、苛立ちを隠せない様子で問いかけてくる。
『上野の保管庫ってのは、何十年分もの古い感情が眠る巨大な貯蔵庫のはずだろ。それが空っぽになったってのか?』
「ええ。物理的な忘れ物は残っているそうですが、そこに付着していたはずの過去の感情の気配が、一つ残らず消滅しているそうです」
『……そんなの、絶対にあり得ないよ』
理沙が、震える声で言った。
『感情って、そんな簡単に、しかも過去のものまでまとめて消せるようなものじゃないはず……。何が起きているの? 私、なんだかすごく怖いよ……』
「落ち着いてください、理沙さん。新宿も、巣鴨も、吉祥寺も、そして上野も……。東京の主要な駅を中心にして、現在と過去の感情が、同時に、かつ大規模に奪われ始めていることは間違いありません」
相沢が冷静に状況を整理した、その時だった。
ピロリン。
相沢の手元の業務端末、そしてグループ通話で繋がっている各管理者の端末が、同時に乾いた電子音を鳴らした。表示されたのは、一通の告知メール。送信元は――『統括本部・開発部』。相沢がその文面を開くと、そこには不気味なほど丁寧で、痛々しいほどの「感謝」と「労い」の念に満ちた文字列が並んでいた。
***
『遺失物取扱業務に従事する管理者の皆様へ
長年にわたり、各駅で人々の重く苦しい感情を受け止め、浄化してくださった皆様の献身的なご活躍に、心より深く感謝申し上げます。この度、本部開発部主導による「ユートピア・システム」が完成し、本格稼働いたしました。これより、東京全域の感情ノイズは本システムによって自動で回収・消去されます。つきましては、本日をもって各駅遺失物取扱センターにおける「感情の管理・浄化業務」はすべて終了となります。これ以上、皆様が他人の痛みを背負い、自身の心をすり減らす必要はありません。皆様の背負ってきた重荷は、すべてシステムが引き受けます。どうか、これからはご自身の人生のために、ゆっくりとお休みください。
なお、吉祥寺センターの相沢様におかれましては、これまでのご苦労への慰労と、今後の手続きについてご説明したく存じます。速やかに東京駅地下・統括本部までご足労願います。 ――統括本部・開発部主任』
***
「業務の、終了……」
相沢の傍らで画面を覗き込んでいた淳が、ぽつりとその言葉を漏らした。
スピーカーの向こうから、須藤の激しい舌打ちが、耳を劈くほどの鋭さで響き渡った。
『おい、なめやがって。ユートピア・システムだァ? 俺たちが毎日、どれだけ泥水すすって、反吐を吐きながら新宿のクソノイズを処理してきたと思ってんだ。それをシステムが自動で消すから「ゆっくり休め」だと?』
『須藤さん、でも……』
『うるせえ、理沙! こんな勝手な真似されてたまるか! 相沢、俺は今から東京駅の本部へ乗り込む。そのお節介な本部の連中の胸ぐらを掴んで、システムごと金槌で叩き壊してやる!』
「待ってください、須藤さん。それに理沙さんも、中村さんも」
相沢は、受話器越しに全員を制した。
「メールに書かれていた通り、呼び出されたのは私だけです。相手の技術力も、この漂白現象の規模も、我々の想定を遥かに超えている。全員で軽率に動くのは、本部の思う壺です」
『チッ……。じゃあ、お前一人で行くってのかよ。また自分一人で背負い込むつもりか?』
「背負い込むのではありません。確認しに行くのです。彼らが何をしようとしているのか、そして――この街から感情を奪い去ることが、本当に『救い』なのかを。皆さんはそれぞれのセンターで待機し、いつでも動けるように備えておいてください。いいですね?」
数秒の沈黙の後、須藤は『……ヤバくなったら、一秒で呼びやがれ。新宿から東京駅なら、中央線ですぐだからな』と毒突き、通話を切った。理沙も『気をつけてくださいね、相沢さん……』と心配そうに言い、回線は静寂に戻った。
相沢は業務端末をポケットにしまい、立ち上がった。ロッカーを開け、予備の真っ白な布手袋をもう一双、大切に内ポケットに入れる。それから制帽を手に取り、目深に被り直した。
「相沢さん、僕も……僕も東京駅に、ついて行きます!」
淳が、必死な表情で相沢の袖を掴んだ。
相沢は優しく首を振り、淳の肩にそっと手を置いた。
「いいえ、淳君。君はここに残り、吉祥寺のセンターを守っていてください」
「でも……」
「今日で三日間、感情の忘れ物は届いていません。ですが、このセンターの奥の保管庫には、まだ私が処理しきれずに残っている『過去の感情』たちが眠っています。本部のシステムがそれらをも狙っているとすれば、ここを守る人間が必要です。淳君、君にしか頼めないのです」
淳は、相沢の真剣な眼差しを受け止めると、やがて小さく、だが力強く頷いた。
「……分かりました。相沢さんが戻るまで、僕が絶対に、ここを守ります」
「ええ、頼みましたよ。それでは、行ってきます」
相沢は淳の頭を一度だけ撫で、それから慣れた手つきで白手袋のシワをスッと伸ばすと、吉祥寺のセンターを後にした。
(第3話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

