連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第3話:白衣の幼なじみ

第3話:白衣の幼なじみ
目安読了時間
約6分(約3,600文字)
小説ジャンル
サイバーパンク / SFファンタジー
主要登場人物
相沢、篠原綾乃(統括本部・システム開発主任)
【あらすじ】東京駅地下の中枢、統括本部の制御室で相沢を待っていたのは、システム開発主任・篠原綾乃だった。なぜ彼女はこれほど大規模な感情の漂白システムを創り上げたのか。冷たいサーバー群の奥で明かされる、真の目的とは……。

外へ出ると、容赦ない真夏の熱風が、相沢の首元をじりじりと焼いた。連日、記録的な猛暑が続く東京の街。アスファルトからはゆらゆらと強烈な陽炎が立ち上っている。
だが、相沢の『視覚』には、その不自然さが際立って見えた。これほどの酷暑であるにもかかわらず、駅前を行き交う人々は誰一人として汗を拭うこともなく、不快そうに顔をしかめることもない。まるで涼しげな秋風の中にでもいるかのように、均一で穏やかな微笑みを浮かべて歩いている。彼らから発せられるべき「暑苦しさ」や「苛立ち」といった、生命力に満ちた橙色のオーラは、一滴たりとも見えなかった。

中央線の快速電車に乗り込むと、車内は不気味なほど冷え切っていた。窓の外はじりじりと照りつける太陽があるというのに、車内はまるでお通夜のような、温度のない寒々しさに支配されている。相沢は、周囲の乗客たちを静かに観察した。いつもなら、この時間帯の中央線は、仕事に疲れたサラリーマンの淀んだ灰色の靄や、スマホの画面を見つめる若者たちの乾いた承認欲求が、雑多なノイズとなって車内を満たしている。しかし、今は完璧な静寂だった。誰も舌打ちをしない。席の譲り合いで譲られた者も、譲った者も、同じ無機質な笑顔で「すみません」「いえ、こちらこそ」と繰り返すだけだ。その姿は、人間というよりも「精巧な蝋人形」のようだった。

(彼らは、苦痛を感じていない。だが、それは同時に、生きている実感を失っているということだ……)

クーラーの冷気とは異なる、肌を刺すような寒気が、相沢の背筋を伝い落ちていく。電車は新宿、四ツ谷、御茶ノ水、神田を通り過ぎ、やがて東京駅のホームへと滑り込んだ。

***

東京駅、丸の内地下中央口。無数の人々が音もなく行き交うコンクリートの地下迷宮を通り抜け、相沢は指定された「関係者以外立入禁止」のセキュリティゲートの前に立った。壁のリーダーに、業務端末に送られていた特殊なデジタルパスをかざす。

『パスを認証しました。生体スキャンを開始します』

無機質な音声と共に、網膜スキャンと静脈認証が行われ、やがて重厚な鋼鉄の扉がプシューという排気音とともにゆっくりと開いた。

一歩足を踏み入れると、そこは完全な「無菌室」だった。真っ白な壁。天井を走る冷たいLEDの光。そして、防音ガラスの向こう側に延々と立ち並ぶ、見上げるほど巨大な黒いサーバー群。それらは極めて低い虫の羽音のような駆動音を響かせながら、規則的に緑色のインジケーターを明滅させている。相沢は、白手袋をはめた右手を、ガラスの壁にそっと添えた。

(……冷たい)

そこからは、何の感情の重さも、温もりも、伝わってこない。東京中の人々の心から吸い上げられた数百万、数千万もの感情が、この冷たいマシンの中で、ただの電子データとして一瞬にして処理され、消去されているのだ。その徹底的な「効率」と「無」のシステムを前に、相沢は胸が押し潰されるような、本能的な嫌悪感を覚えた。

「相沢管理者ですね。開発部主任がお待ちです。こちらへ」

白衣を着た、感情の起伏の感じられない若い男性の案内役に促され、相沢はさらに奥の重厚な金属のドアをくぐった。

通されたのは、いくつもの巨大なメインモニターが壁一面に並ぶ、宇宙船のブリッジのような制御室(コントロールルーム)だった。モニターには、東京の複雑な鉄道路線図と、山手線の美しいグリーンのリングがホログラムとして立体的に浮かび上がっている。その無機質な光に照らされながら、部屋の中央、ホログラムのコンソールに向かって立っている一人の女性がいた。白衣を羽織り、髪を後ろで一つに結んだ、知的な佇まいの女性。彼女は相沢の足音に気づくと、ゆっくりと、こちらに向かって振り返った。

「……いらっしゃい、相沢くん。……随分と、久しぶりね」

その穏やかで、しかし心からの温もりを湛えた声を聞いた瞬間。常に冷静沈着な相沢の瞳が、驚愕に見開かれた。

「……えっ?」

年齢は自分と同じ、三十代半ば。白衣の下にはきちんとしたスーツを着こなしているが、その知的な黒縁眼鏡の奥にある、優しく、そしてどこか哀しげな光を湛えた瞳は――相沢の記憶の一番深い場所に、ずっと眠っていた「あの頃」と、全く変わっていなかった。

「……綾乃、さん……?」

相沢の震える唇から、信じられないというように、その名が漏れた。

知的な黒縁眼鏡の奥で、かつて相沢のために涙を流してくれた、たった一人の幼なじみ――篠原綾乃(しのはら・あやの)が、昔と変わらない雪解けのような笑みを浮かべて立っていた。

「驚いた? 私がこの『ユートピア・システム』の開発主任を務めているの。……驚くのも無理はないわよね」

綾乃はふわりと白衣の裾を揺らしながら、相沢の前にゆっくりと歩み寄ってきた。体温を感じさせない冷たい制御室の中に、彼女が纏うかすかな懐かしい気配だけが、不自然に浮き上がって漂っている。

「どうして、あなたが本部に……。これほど大規模なシステムを構築して、東京中の感情を奪うようなことをしているのですか」

相沢は、手袋を嵌めた両手を静かに握りしめて尋ねた。綾乃は、少しだけ寂しそうに微笑み、その瞳にどこまでも真っ直ぐな「善意」の光を宿して、相沢を見つめ返した。

「どうしてって……あなたのためよ、相沢くん。全部、あなたを救うため」

彼女の眼差しは、慈愛に満ちていた。それは、かつて吉祥寺駅の片隅で、耳を塞いで泣き喚いていた幼い相沢を、心配そうに抱きしめてくれたあの頃の瞳と、全く同じだった。

***

今から約三十年前。

東京の夏は今よりもずっと泥臭く、じりじりと容赦のない陽射しがアスファルトを焦がしていた。蝉の鳴き声が鼓膜を突き刺すように響く中、七歳の相沢は、吉祥寺駅のコンコースの片隅に座り込み、小さな両耳を全力で塞いでいた。

『うるさい! 痛い! やめて、僕の中に入ってこないで!』

彼には、すれ違う大人たちが発する「仕事の鬱屈した淀み」「誰かを呪う真っ赤な嫉妬」「じっとりと湿った焦燥感」が、鋭い針のような色と形、そして悍おぞましい不協和音となって直接脳内に流れ込んできていた。感情の共感覚。その呪いのような特異体質を理解してくれる大人は誰一人おらず、彼はただ、世界の悪意に曝されながら、毎日心が千切れるような痛みに泣き叫ぶことしかできなかった。

そんな相沢を見つけ、人混みをかき分けて駆け寄ってくれたのが、近所に住んでいた少し年上の少女、綾乃だった。

『相沢くん! 大丈夫!? どこが痛いの?』

『見えちゃうんだ……みんなの嫌な気持ちが、黒い虫みたいに僕の頭に入ってくるんだ……』

普通の人間である綾乃には、相沢が見ている恐ろしい極彩色の泥も、聞こえている悲鳴も、何一つ分かりはしなかった。けれど彼女は、相沢を気味悪がることなく、汗だらけになった相沢の小さな手を、自分の両手で強く強く握りしめてくれたのだ。

『……ごめんね、相沢くん。私には、相沢くんのような不思議な力がないから。相沢くんが本当はどんなに嫌なものを見て、どんなにひどい音を聞いて苦しんでいるのか、同じように感じて分かってあげることができない。……ごめんね』

綾乃は、相沢を抱きしめ、自分のことのように大粒の涙を流して一緒に泣いてくれた。そして、自分の感情に押し潰され、ついに心を殺すことで「表情のない人形」のようになってしまった相沢を見て、少女は血が滲むほど唇を噛み締め、泣きながら約束したのだ。

『私が、いつか絶対に、相沢くんを助けてあげるから。……相沢くんが、もう二度と他人の気持ちで傷つかない世界を、私が創ってあげるからね』

それは、無力だった幼い少女が胸に誓った、純粋で、そして悲しい「祈り」だった。

***

「私は、あの日の約束をずっと忘れていなかったわ」

綾乃は、ガラスの向こうに整然と並び、静かに駆動する巨大な中枢サーバー群へと、愛おしそうな視線を向けた。

「私はね、相沢くんに笑ってほしかったの。他人の感情に怯えることなく、一緒にただ青空を見て、『綺麗だね』って言ってほしかった。だから私は、猛勉強してこの統括本部に入り、この『ユートピア・システム』を創り上げたのよ。あなたのように、他人のノイズに敏感すぎて、心をすり減らしてしまう優しい人たちを救うためにね」

白衣を纏った幼なじみは、相沢の胸にそっと手を伸ばした。その「純粋すぎる善意」は、どのような邪悪な悪意よりも遥かに強固で、そして、恐ろしいほどの説得力を持って相沢の前に立ちはだかっていた。

(第4話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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