「……綾乃さん。あなたの想いは分かりますが、このシステムは間違っています。人々から感情そのものを間引くことなど、許されるはずがありません」
相沢は、伸ばされかけた彼女の手を優しく、だが確かな拒絶を込めて遮り、答えた。
綾乃は困惑したように眉をひそめ、首を横に振った。
「どうして間違っているの? 争いも悲しみもない、誰も傷つかない世界なのよ。ねえ、相沢くん。あなたは長年、遺失物取扱センターの管理者として働いてきたけれど……なぜ、感情の忘れ物が『特定の駅』にばかり、集中的に集まるのか、疑問に思ったことはない?」
「……それは……」
相沢が言葉を詰まらせると、綾乃はホログラムのコンソールを操作した。 青白い光が揺らめき、空間に東京の複雑な鉄道路線図が浮かび上がる。その中心に位置する山手線のリングが、緑色に不気味に明滅していた。
「東京という巨大な生き物の血管とも言える山手線、そしてそれを西へ貫く中央線。その主要な駅――新宿、巣鴨、上野、品川、秋葉原、吉祥寺。それらは偶然選ばれた場所ではないわ」
開発主任である篠原綾乃は、コンソールの光に照らされながら、流暢に説明を続ける。その表情には、一点の曇りもない。
「このメガシティ東京は、毎日膨大な数の人間が蠢き、負の感情を垂れ流している。そのままにしていれば、都市の精神衛生はとっくに決壊して、街全体が狂気に染まってしまう。だからこそ、設計されたの。ターミナル駅の地下に負の感情を滞留させ、逃がすための『排気口』をね」
「排気口……」
相沢の呟きに、綾乃は明滅する光のリングを指先でなぞった。
「でも、ただ溜めるだけではいつか溢れる。だから本部は、あなたたちのような特別な『共感覚』を持つ人間をスカウトし、遺失物取扱センターの管理人という名目で、その排気口の前に座らせたのよ」
彼女の口から語られる真実は、冷酷極まりないものだった。
「あなたたちは、都市の健康を維持するためだけに、他人のドロドロとした負の感情を吸い込み、浄化し、あるいは引き受けて消費される『生きたフィルター』。……相沢くん、あなたはそんな過酷な役割を、ただの義務感だけで何年も続けてきたのよ」
新宿の須藤が日々、鼓膜を引き裂くような騒音に悩まされ、巣鴨の理沙が他人の愛憎の蔦に蝕まれて倒れかけ、上野の結城が四十年間、鉛のような重さを一人で背負い続けてきた理由。それらはすべて、この都市システムを維持するために課せられた「生きた人柱」としての役割だった。
「だからこそ、このシステムが必要なの」
綾乃は一際輝く巨大な中枢サーバー群へと、救いを求めるような、しかし確信に満ちた視線を向けた。
「人間にやらせていた『フィルター』の役割を、すべて機械(システム)に置き換える。東京中に溜まる負の感情を、自動でこの中央サーバーへ吸い上げ、分子レベルで消去し、漂白する。それが『ユートピア・システム』。これさえあれば、あなたも、須藤くんも、理沙ちゃんも、もう他人のゴミみたいな感情に心をすり減らされる必要はなくなるのよ」
綾乃は相沢をまっすぐに見つめた。
「もう、その白い手袋をはめなくてもいいの。……相沢くん、あの日からずっと、あなたは痛みに耐えて、心を殺して生きてきたでしょう? 私がそれを、全部終わらせてあげる」
その言葉は、恐ろしいほどの「善意」でコーティングされていた。彼女の行動には、一切の悪意や利己的な欲望は含まれていない。ただひたすらに、あの日駅の片隅で泣き叫んでいた幼なじみの少年を救いたい。彼がこれ以上、世界の悪意に曝されて心を傷つけられないように、痛みのない「完璧に綺麗な世界」を提供したい。その一心で、彼女は人生のすべてを捧げてこの巨大なシステムを作り上げたのだ。これまでのどんな強敵よりも、彼女の「善意」は頑強で、そして容赦がなかった。
「……綾乃さん」
相沢は、そっと、だが決定的な力強さで、一歩前に進み出た。
「あなたのその想いは、痛いほど理解できます。……ですが、やはりこの漂白システムは間違っている。私たちが傷つかないために、人々から感情そのものを間引くことなど、あってはならない」
「どうして……?」
綾乃の顔から、誇らしげな笑みが消え、困惑の影が走った。
「どうしてそんなこと言うの? 相沢くん、あなたが長年、あのセンターで見てきたものは何? 苦しみ、焦り、嫉妬、憎悪……そんな汚くて重い荷物ばかりだったでしょう? なぜそれを、そこまでして守ろうとするの?」
「確かに、私が扱ってきたのは、あなたにとってはゴミやノイズにしか見えないものかもしれません」
相沢は、右手を強く握りしめた。彼の脳裏には、これまで吉祥寺のセンターで出会い、そして自分の意志で忘れ物を持ち帰っていった人々の姿が、鮮明な「色」となって蘇っていた。
「彼らは皆、傷つくことを恐れずに、自分の『痛み』を持ち帰りました。悲しみや怒り、絶望といった負の感情を拒絶するのではなく、それすらも自分の一部なのだと、血を流しながらも受け入れて進んでいきました。……痛みがなければ、人間は人間ではなくなってしまうのです」
かつて感情を「瓶」に閉じ込め、ただの空っぽの人形として生きていた相沢だからこそ、その言葉には、胸を抉るような真実の重みがあった。
「悲しみがあるからこそ、人は他人の痛みに優しくなれる。怒りがあるからこそ、大切なものを守る強さが生まれる。……それをすべて漂白してしまった世界は、誰も傷つかない代わりに、誰も本気で愛し合えない、ただの蝋人形の展示室です」
「……違う!」
綾乃は、耳を塞ぐように首を強く横に振った。彼女の瞳に、深い絶望と焦燥の涙が浮かぶ。
「私は、あなたをそんな詭弁で誤魔化して、また一人でボロボロに傷ついてほしくないの! あなたを救うためなら、私は世界中の『感情』なんて、全部消し去ってしまっても構わない!」
綾乃の持つ「善意」という名の狂気は、相沢の言葉を完全に弾き返した。
「……もう遅いわ、相沢くん。システムはすでに最終段階に入っている。これより数時間かけて、東京全域の感情ネットワークの上書きを完了させるわ」
綾乃は冷徹な手つきでコンソールをタップした。
「あなたはここで、私が創り上げる『ユートピア』を、安全な場所から見守っていて」
ピピッ、という無機質な電子音。次の瞬間、制御室の分厚い鋼鉄の扉が重々しい音を立ててロックされ、天井のハッチから三機の防衛ドローンが降下してきた。赤いレーザーポインターの細い線が、相沢の胸元にピタリと固定される。それは、彼に牙を剥く悪意ではなく、ただ「対象を無傷でその場に監禁する」ための、冷徹で機能的な善意の檻だった。
完全にロックされた制御室の奥で、相沢は、赤く明滅するシステムの光を見つめ、静かに呼吸を整えた。冷え切った地下空間。退路はすべて断たれた。だが、相沢の瞳には、一歩も引かない決意の光が、静かに灯っていた。
(第5話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

