連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第5話:反逆の狼煙

第5話:反逆の狼煙
目安読了時間
約5分(約3,200文字)
小説ジャンル
サイバーパンク / SFファンタジー
主要登場人物
相沢、篠原綾乃
【あらすじ】システムの檻に囚われた相沢は、静かに反撃の狼煙を上げる。東京の感情を取り戻すため、各駅の管理者たちに託された前代未聞の作戦とは。泥臭くて愛おしい「日常」を守るため、ノイズを取り戻す戦いが幕を開ける。

「お別れね、相沢くん。……どうか、そこから私たちが創り出す完璧な世界を見届けて」

綾乃は悲しげに、けれど一切の迷いのない瞳で相沢を見つめると、コンソールの操作パネルを叩いた。彼女の足元から、地下深くの総司令室へと繋がる高速エレベーターが作動し、その姿は青白い光の中に吸い込まれるようにして消えていった。

残されたのは、不気味な赤色のアラートが点滅する、閉ざされた制御室。そして、相沢を「安全に監視」するために冷酷なレンズを向けるドローンたちだけだった。

「……私のために、そこまでしてくれたのですね」

相沢は、赤く染まった部屋の静寂の中で、ぽつりと呟いた。綾乃の優しさは本物だった。幼い頃、他人の感情の嵐に耐えきれず泣き叫んでいた自分を、誰よりも心配して、一緒に泣いてくれた少女の温もり。その時に交わした「あなたが傷つかない世界を創る」という約束を守るために、彼女は人生のすべてを捧げてこの巨大な漂白システムを作り上げたのだ。だが、その純粋すぎる善意は、同時に人間の生きる力そのものを奪い去る『檻』でもあった。痛みのない世界は、誰も傷つかない代わりに、誰も本気で笑えない、温度を持たない蝋人形の街だ。これまで吉祥寺のセンターで、自分の感情を取り戻して泣き、叫び、そして再び歩き出していった人々の美しい「生きた色」を、相沢は知っている。

「……だからこそ、私はあなたを止めなければならない」

相沢は、右手に嵌めていた真っ白な布手袋の端を掴んだ。そして、ゆっくりと、それを引き抜いた。

スッ、と風を切るような音がして白い布が床に落ちる。露わになった相沢の右手。白手袋に封じ込められていた、相沢自身の本来の「能力」が、空気に触れて一気に解放された。

カッ!!!!!

相沢の手のひらから、目が眩むほどの純白の光が激しく吹き出した。それは、他人の強烈な悪意を打ち消し、あるべき形へと還す「絶対的な浄化のエネルギー」だ。素手から放たれるその高濃度の光の奔流は、物理的な圧力すら伴うほどの凄まじい熱量を持っていた。

ジジジ、バチバチバチッ!

迫りかけていたドローンたちの光学センサーが一瞬で焼き切れ、機体から黒い煙が噴き出す。さらに相沢は、その右手を電子ロックの基盤へと直接押し当てた。

「……開け!!」

凄まじい過電流が制御室のセキュリティを駆け巡る。バチィンという激しいショート音とともに火花が散り、強固に閉ざされていた鋼鉄の扉が、ロックを強制解除されて力なく半開きになった。

相沢は、煙の立ち込める制御室を飛び出し、東京駅の冷たく巨大な地下通路へと走り出した。その通路は、感情消去システムの冷たい廃熱ファンの風が吹き抜け、不気味なほどひんやりと冷え切っていた。無機質な白い壁が延々と続く通路を走りながら、相沢はズボンのポケットから業務端末を取り出し、画面を素早くタップして「管理者専用グループ通話」を起動した。

ザザァ……、ザザッ!

スピーカーから、割れんばかりの激しいノイズと、聞き慣れた男の怒鳴り声が飛び込んできた。

『おい、相沢! どうなってやがる! 新宿の様子が、さっきから一気に限界を突破し始めてるぞ!』

新宿センターの須藤だ。彼の声は、これまでにないほどの緊迫感と苛立ちに満ちていた。

『音が……完全に消えやがった。街の奴らだけじゃねえ、俺の頭の中にまで、気味の悪い「静寂」が侵食してきてる。……てめぇ、本部で何が起きてるのか説明しろ!』

「須藤さん、落ち着いて聞いてください。本部が、東京全域の感情ネットワークを最終フェーズへ移行させ、完全に『上書き』しようとしています。街からすべての感情が、機械的に間引かれようとしているのです」

相沢は、息を切らしながらも、冷静に状況を告げた。

『何だって……!?』

その時、同じ回線に、巣鴨の峰岸理沙の震える声が割り込んできた。

『あ、相沢さん! 須藤さん! 巣鴨も、おばあちゃんたちがみんな……まるでお人形みたいに静かになっちゃって。私の鼻も、もう何の匂いも感じられないんです。……どうしたら、どうしたらいいの!?』

『おい、理沙、泣くんじゃねえ! 頭に響くだろ!』

須藤が怒鳴るが、その声にも焦りが混じっている。さらに、上野の中村拓也の、パニック寸前の声も重なった。

『中村です! 結城さんから引き継いだ大切な保管庫を、こんな空っぽのガラクタ置き場にしたまま終わらせるわけにはいきません!相沢さん、自分にできることは何でもします!なんとかなりませんか!』

各駅の管理者たちの、血を吐くような叫び。相沢は、地下通路の分岐点を右へ曲がりながら、全員に向けて叫んだ。

「みなさん、聞いてください。このシステムを止める唯一の方法があります。……私たちの駅は、都市の負の感情を逃がすための『要石(かなめいし)』、つまり排気口として最初から設計されていました。私たちは、その排気口の前で感情を受け止める『生きたフィルター』だったのです」

その衝撃の真実に、回線の向こうで須藤が『……生きたフィルター、だと?』と低く呻くのが聞こえた。

「システムは、各要石から流れ込んでくるノイズを自動で消去することで成り立っています。……ならば、その逆を行うのです。リアム君が、システム中枢のセキュリティを一時的に無効化し、回収ポートの帯域制限を解除するハッキングを裏で開始してくれています。彼の合図に合わせて、各センターの奥底に厳重に封印されている、最も重く、強い『感情の忘れ物』を解放し、ダクトへ一斉に流し込むのです!」

『……ハッ』

新宿の地下で、須藤が凶悪な笑みを浮かべる気配が伝わってきた。

『要するに、綺麗に漂白されたあいつらのシステムに、俺たちが今まで溜め込んできた「最高のドロドロの泥水」を一気にぶち込んで、胃もたれさせてパンクさせてやるってことだな?』

「その通りです。消去プログラムの処理能力を遥かに超える、規格外のノイズを逆流させ、システムをオーバーフローに追い込みます。……これまでの歴史が残した『重さ』で、あの白紙の檻を叩き割るのです」

『面白えじゃねえか。……新宿の特製、猛毒チーズの出番ってわけだ』

須藤の声から、迷いが消えた。

『私も、やります! おじいちゃんやおばあちゃんたちの、大切な生きた証を、あんな空っぽの機械なんかに消させはしません!』

理沙の声にも、かつてない覚悟が宿っていた。

『上野の重さは、俺が届けます!』

中村の、若々しく力強い宣言。

相沢は、地下迷宮の冷たい風を真正面から受け止めながら、最後にグループ通話のもう一つの発信元を呼んだ。

「吉祥寺で待機している淳君。聞こえていますか」

『はいっ! 相沢さん、バッチリ聞こえています!』

淳の、一点の曇りもない澄んだ声が響く。

『吉祥寺の倉庫の奥にある、あの騒がしくて温かいお忘れ物たち……。僕が責任を持って、全部ダクトへ送り出します。だから、相沢さんはご自身の役目を果たしてください!』

「ええ。任せましたよ、淳君」

相沢の胸に、熱い感情の波がこみ上げてきた。彼らはもう、ただ運命に流されるだけのフィルターではない。自分たちの愛する街の、泥臭くて騒がしい「日常」を守るために立ち上がった、誇り高き表現者たちだった。

東京駅地下の深い暗闇。相沢は、素手の右手をきつく握りしめ、走る速度をさらに上げた。

「私たちの街の、泥臭くて、騒がしくて、最高に愛おしいノイズを取り戻すのです。……反撃を開始しましょう!」

相沢の反逆の狼煙が、東京の地下深くで、静かに、そして爆発的な熱量を持って響き渡った。 五つの要石による、未曾有の「ノイズの逆流」が、今、始まろうとしていた。

(第6話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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