秋葉原 Eスポーツカフェ『ネオ・ヘヴン』
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日曜日だというのに、秋葉原の中央通りの歩行者天国は静まり返っていた。 茹だるような陽射しがアスファルトをじりじりと焼いているが、行き交う人々は皆、仏像のような穏やかな微笑みを浮かべ、汗を拭うことすら忘れたように淡々と歩いている。
「はぁ……。バグがない世界なんて、ただのクソゲーだよ」
Eスポーツカフェ『ネオ・ヘヴン』のハイスペックPCブースで、影山リアムはエナジードリンクのプルトップを開け、冷めた目でモニターを見つめていた。彼の『電子視覚(デジタル・ヴィジョン)』には、東京全域を網の目のように覆う「ユートピア・システム」の光のラインが、不気味なほど綺麗に整理されたコードとして視認できていた。
かつての彼なら、人間の感情などという「非論理的で汚いバグ」を消去してくれるこのシステムを、大絶賛していたかもしれない。だが、彼は相沢や須藤と出会い、そして秋葉原の路上で泥臭いクリエイターの「産みの苦しみ」から傑作が生まれる瞬間を、確かにこの目で見てしまった。バグをすべて取り除き、効率化に特化したシステムは、確かに美しい。だが、そこには人間らしい驚きも、カタルシスも、熱量も存在しない。ただ、フリーズを免れただけの空っぽのプログラムが走っているだけだ。
「大人は人使いが荒いよね。僕にサイバーテロの片棒を担げって言うんだから」
リアムはため息をつきながらも、愛用のコンパクトキーボード(HHKB)に細い指を乗せた。
相沢からの通信で、各駅の管理者たちが「極大のノイズデータ(感情)」をシステムの中枢サーバーへ逆流させる作戦は、すでに始まっている。だが、いくら完璧なシステムでも、そんな規格外のトラフィック(質量)がダクトから一気に押し寄せてくれば、中枢サーバーはそれを外部からの攻撃と認識し、自動的に接続を遮断(シャットダウン)してしまう。大人たちの泥臭い力技を、中枢サーバーの胃袋に直接叩き込むためには、システムの防御機構を内側から欺く「神業」が必要だった。
「僕が、各駅のダクトに設置されている防御機構(ファイアウォール)を無効化する。割れ目をこじ開けて、通信帯域の制限を限界突破(オーバークロック)させて全開にする。……どんな猛毒の塊が流れてきても、システムがそれを強制的にすべて飲み込まざるを得ないようにね」
カチャカチャカチャッ、カチャカチャカチャカチャ……!
静かな個室に、小気味良い、しかし凄まじい速度の打鍵音が響き渡る。リアムの青い瞳の中を、緑色のシステムログが高速で流れていく。中枢サーバーの暗号キーを瞬時に解析し、脆弱性を突いて赤いバイパスのコードを流し込んでいく。
「はい、ルート確保(コネクション・エスタブリッシュ)。セキュリティは全部骨抜きにしておいたよ」
リアムはニカッと不敵な笑みを浮かべ、最後にエンターキーを強く叩き込んだ。
ッターン!
モニターに映る東京の鉄道路線図の上に、五つのターミナル駅と東京駅を太く結ぶ「五本の赤いバイパス」が鮮やかに浮かび上がる。中枢サーバーの心臓部へ、何者も拒めない、人間の泥臭いノイズを飲み込ませるための接続(リンク)が完成した。
「さあ、お膳立てはしておいたよ。……大人たちの、汚くて熱い反撃の始まりだ」
リアムの冷静で、どこか楽しげな声が、彼ら専用のグループ通話のスピーカーを通じて、新宿、巣鴨、上野、吉祥寺の各センターへと一斉に配信された。
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品川 フレンチレストラン『Le Miroir(ル・ミロワール)』
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その頃、うだるような真夏の熱気が支配しているはずの品川駅前。超高層ビルの最上階に位置するフレンチレストラン『Le Miroir(ル・ミロワール)』の厨房は、いつもなら仕込みの熱気と料理人たちの荒い息遣いで満ちているはずだった。だが、今の厨房は、まるで稼働を停止した精密機械の工場のように、不気味なほど冷ややかで静まり返っていた。
「……シェフ。メインのロースト、焼き上がりました」
部下の料理人が、表情を失った能面のような顔で、淡々と肉皿を差し出してきた。総料理長の三浦省吾は、完璧に糊の利いたコックコートの襟を正し、銀縁眼鏡を押し上げて皿を睨みつけた。
「ノン(Non)。火の通りは完璧だ。盛り付けの色彩も非の打ち所がない。……だが、客には届かない」
三浦の声は、乾いた砂のように響いた。彼の前に広がるダイニングには、予約を勝ち取った幸運な客たちが並んでいる。だが、窓の外に広がる東京タワーの赤い光とは対照的に、客たちの顔には「熱」がない。
吉祥寺の管理人・相沢の白手袋によって徹底的に胃袋を浄化されて以来、「真っ当な料理人として生きる。」そう誓った三浦だったが、この三日間、世界から完全に「感情の匂い」が消え失せたことに、耐え難い恐怖を覚えていた。料理を食べても、客たちの胸の奥には何の「色」も「匂い」も立ち上らない。ただ、精巧に作られたロボットのように「美味しいです」と定型文を口にするだけだ。
「これでは、ただの粘土をこねているのと同じだ。……私は、人間のために料理を作っているはずなのに」
三浦が絶望に似た焦燥を抱え、冷え切った厨房で立ち尽くしていた、その時。彼のプライベート端末が、耳障りな電子音を立てて震え始めた。表示された発信元は――『吉祥寺駅 遺失物取扱センター・相沢』。
「ひ、ひぎぃっ!?」
その名前を見た瞬間、三浦の胃の腑がキュッと恐怖で縮み上がった。吉祥寺のセンターで、あの仏のように穏やかな顔をした「鬼」に、真っ白な手袋を喉の奥深くまでねじ込まれたトラウマが、全身から一気に冷や汗を吹き出させた。
三浦は震える指で通話ボタンをタップし、耳元に当てた。
「は、はいィ! 品川の三浦ですが! もちろん私は今日も真面目にフレンチを作っておりまして、決して変な拾い食いなどは……!」
『三浦さん。言い訳は結構です。……現在、東京駅の地下中枢に存在する「ユートピア・システム」が本格稼働し、東京全域から人間の感情が強制的に吸い上げられ、漂白されています。このままでは、人々は心から熱を失い、完全に空っぽな蝋人形になってしまうでしょう』
相沢の、冷徹なまでに静かで穏やかな声が、スピーカーから流れ込んできた。
「ひ、漂白……!? だから、客たちから感情の匂いが消えてしまったのですか!」
『ええ。そして、その暴走するシステムを止める唯一の手段は、各ターミナル駅に設置された回収ポートから、消化しきれないほどの強烈な「人間のノイズ」を逆流させ、中枢サーバーをオーバーフローさせることです。』
「……はあ。」
『……そこで、三浦さん。あなたが改心する前に集めた、“邪悪な感情のコレクション”……。もったいなくて未練がましく捨てずに隠し持っているのはお見通しですよ。』
「ひぃっ!? な、なぜそのコレクションのことを……! 誓って、あの日以来一口も舐めておりません! ただ、どうしても捨てるに忍びなくて……!」
三浦はオーナーシェフ室に駆け込み、鍵を閉めて泣きついた。そう、彼にはどうしても捨てられなかった「極上のヴィンテージ・コレクション」があった。かつて客たちから掠め取った、猜疑心のカルパッチョ、虚栄心のキャビア、自己憐憫のコンフィ、独占欲のテリーヌ……。それらを、彼は宝物のように冷蔵庫の奥深くに隠し持っていたのだ。
『怒るつもりはありません。むしろ、その封印されたコレクションを、今こそすべて放出していただきたいのです。今すぐ品川駅の新幹線南のりかえ口(南ゲート)の自動改札のすぐ横、清掃員用通路の突き当たりにある「感情の回収ダクト」へすべて投げ入れてください』
「え、エェッ!? 私の愛しい、世界に二つとない極上のヴィンテージ感情を捨てるだなんて……そんな、もったいない!」
『……やりますか? それとも、もう一度私の「白手袋」で、胃袋の底まで漂白されることを望みますか?』
「や、やりますゥゥゥ! 今すぐ走りますゥゥ!」
三浦は悲鳴を上げて降伏した。あの内臓が裏返るような地獄の苦しみを味わうくらいなら、コレクションをすべてドブに捨てる方が何倍もマシだった。
通話が切れると、三浦はオーナー室の頑丈な冷蔵庫の最奥を開け、厳重にロックされた密閉容器をいくつも掴んだ。コックコート姿のまま、彼はビルを飛び出し、じりじりと照りつける容赦ない太陽の下へと駆け出した。三浦は額に大粒の汗を滲ませ、品川駅の港南口から「新幹線南のりかえ口(南ゲート)」へと猛ダッシュする。
自動改札機を行き交う人々は、みな仏像のような微笑みを浮かべ、したたる汗に眉ひとつ動かさない。その無菌室のような人波をかき分け、三浦は南ゲート改札のすぐ右脇にある、業務用清掃員通路へと滑り込んだ。通路の突き当たり、壁の奥から「ゴォォォ……」と不気味な吸引音を立てて空気を吸い込んでいる、重厚な金属製のハッチ――それこそが、品川駅の要石に隠された、感情の回収ダクトだった。
「さようなら、私の愛しいヴィンテージたち……。せめて、その美しすぎる真っ白なシステムに、極上の『腹痛(スパイス)』を与えてやりなさいッ!」
三浦はやけくそになり、密閉容器の蓋を次々と引きちぎり、集めた感情の束をダクトの暗闇へと力任せにぶちまけた。ドロドロとした人間のドス黒い業が、品川の要石から、東京の地下を巡る感情の回収ネットワークへと、猛烈な勢いで吸い込まれていく。
(第7話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

