新宿駅東口地下 遺失物取扱センター
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薄暗いコンクリート打ちっぱなしの部屋で、須藤は、首にかけた最新型のヘッドホンを力任せに引き剥がし、床へと叩きつけた。
「ハッ。待たせやがって、クソガキが」
須藤は、倉庫の最奥にある「特別保管庫(開かずの金庫)」の前に立っていた。その頑丈な鋼鉄の扉の隙間からは、すでにドロドロとした黒い煤が這い出し床を汚し始めていた。かつて新宿中の何百万人のストレスや絶望が堆積し、凝縮された『黒い霧(ブラック・スモッグ)』。その残滓を、彼は再び解放しようとしていた。
須藤は、重厚な金属のハンドルを両手で掴み、全体重をかけて回した。ガコンッッ!!!ロックが外れた瞬間、爆発的な圧力で鉄扉が跳ね上がった。同時に、鼓膜を直接やすりで削るような、悍ましい不協和音の絶叫が吹き荒れる。『死ニタイ』『疲レタ』『金ガナイ』『許サナイ』。それは、漂白された美しい世界が、最も忌み嫌い、消去しようとしている「生々しい人間の汚泥」だった。
「おい、本部のお偉いさんよぉ」
須藤は、顔に赤黒い煤を浴びながら、清掃用の頑丈な火箸(トング)を構えた。そして、のたうち回る黒い霧の塊を力任せに鷲掴みにする。
「てめえらが作った、その綺麗で空っぽな胃袋に……新宿特製の猛毒チーズを、たらふく詰め込んでやるよッ!!」
須藤は叫び、霧の塊を回収ダクトの闇の奥へと、力任せに押し込んだ。
ドォォォォォンッ!!
新宿の要石から、致死量のストレスの奔流が、東京駅の中枢サーバーへ向けて吸い込まれていった。
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巣鴨駅地下 遺失物取扱センター
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時を同じくして、巣鴨駅の地下センター。峰岸理沙は、薄暗い保管庫の中で、古い木箱の前にしゃがみ込んでいた。
「ごめんなさい、おじいちゃん、おばあちゃん。……少しだけ、みんなの『ワガママ』を貸してね」
理沙の繊細な嗅覚が、その木箱から漂う、ツンと鼻を突く「熟しきった果実と原液の酢」のような匂いを捉えていた。それは、お年寄りたちが人生の心細さの中で抱いた「まだ生きたい」「一人にしないで」という、強烈な執着と愛憎の匂いだ。理沙自身が、かつてこれらを取り込みすぎて、背中から『黒い蔦』を這わせる怪物へと変わりかけた、純粋で、そして最も濃密な「生の証」だった。理沙は木箱からそれを取り出し、ダクトの前で両手をかざした。彼女の瞳に、かつての絶望の影はない。ただ、お年寄りたちの「生きた誇り」を守るための、真っ直ぐな決意だけがあった。
「あの真っ白な世界じゃ、誰も本意で泣けない。誰も本気で怒れない。……そんなの、寂しすぎるよっ!!」
理沙は自らの能力『受容(レセプター)』を「吸収」ではなく、「増幅」のベクトルへと全開にした。彼女の背中から、桜色と漆黒が複雑にマーブル状に混ざり合った、強烈な『執着のオーラ』が噴き出し、唸りを上げる回収ダクトへと、一気に吸い込まれていく。巣鴨の要石から、人々の泥臭い愛着の香りが、システムを侵食するウィルスとなり解き放たれた。
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上野駅地下 遺失物取扱センター
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能力を持たない一般の駅員、中村拓也は、システムによって綺麗さっぱりと漂白され、空っぽになった巨大な保管庫の前で、激しい焦燥に駆られていた。彼には、感情のオーラを見ることも、匂いを嗅ぐこともできない。だが、業務端末のスピーカーから聞こえる須藤や理沙たちの、決死の咆哮は痛いほど伝わっていた。
「僕だけが……何もできないなんて、あってたまるかよ!」
中村は顔中の血管を浮き上がらせ、先月定年退職した先代の老管理人・結城のデスクへと駆け寄った。脳裏に浮かぶのは、結城が去り際に残した、厳格な引き継ぎの言葉だ。
『中村君。私のデスクの一番下の引き出しには、私が四十年間大切に保管しておいた「人間の業の結晶」が封印されています。……あれは極めて重く、泥臭い歴史の塊です。何があっても、決して開けてはなりませんよ』
「結城さん、ごめんなさい……! 大切に保管しろって言われたけど、今、この『重さ』が必要なんです!」
中村は迷わず、工具箱から取り出した巨大なバールを、引き出しの鍵穴に叩き込んだ。
ガギィィン!!!
火花を散らして鍵が壊れ、引き出しが開く。中に入っていたのは、分厚い布で何重にも厳重に包まれた、一つの『錆びた鉄の小箱』だった。中村がそれに触れ、持ち上げようとした、その瞬間。
「――ぐ、ぅあッッ!?!?」
中村の膝が、コンクリートの床に激突した。ただの小さな鉄箱のはずが、腕の骨がきしむほどの、あり得ない「物理的な超質量」となって彼を押し潰したのだ。それは、先代の結城が、その太く固い両手で四十年間守り抜いてきた、上野の『歴史の業そのもの』だった。一般人である中村の全身から、滝のような冷や汗が噴き出し、皮膚が引き裂かれそうになる。
「重い……重すぎる……! なんだよこれ……!」
だが、中村は歯が砕けるほど噛み締め、小箱を抱きかかえて床を這った。
「結城さんが……! あなたが守ってきた『重さ』……!! 僕が、確かに届けてみせるッ!!!」
中村は咆哮し、床に血を滲ませながら立ち上がると、渾身の力を込めて、錆びた鉄の小箱を回収ダクトへと放り投げた。どっ、と空気が軋む。人間が必死に生きた究極の質量の結晶が、重力に従って、深淵へと落下していった。
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吉祥寺駅北口 遺失物取扱センター
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そして、吉祥寺駅 遺失物取扱センター。如月淳は、センターの奥深くにある、普段は決して開けない厳重保管庫の前に立っていた。淳の澄み切った瞳には、保管庫の中にひしめき合う、膨大な量の『感情』がはっきりと見えていた。若者たちの挫折の青、恋人たちの修羅場の赤、そして夢破れた者たちの泥臭い未練の灰色。まだ持ち主の元へと届いていない「カオス(混沌)」の結晶だ。かつて、自分の中に巣食う悪魔の力に怯え、心を空っぽにして逃げ出そうとした淳。だが、今の彼には、この泥臭くて愛おしい世界を肯定する強さがあった。
「みんなの『痛かった証拠』、僕がちゃんと、本部に届けるからね」
淳は、保管庫に眠るすべてのカオスをダクトの前に移動させた。限界突破したダクトが、すさまじい風切音を立てて空気を吸い込み始める。五色の色彩が激しい渦を巻いて、ダクトの闇へと飛び込んでいく。
「いっけぇぇぇぇぇッッ!!!」
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新宿の『黒い霧』。
巣鴨の『執着の愛憎』。
品川の『邪悪な野心』。
上野の『歴史の業』。
吉祥寺の『混沌のカオス』。
秋葉原の天才ハッカーが開通させた五つのバイパスを通じて、システムが到底処理しきれない、超高密度の質量を持った『人間の生々しいノイズ』が、東京駅の中枢へと一斉に雪崩れ込んだ。
それは、痛みを奪われ、漂白されようとしていた東京という巨大都市が放った、魂からの、痛烈な一撃だった。
(第8話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

