春のうららかな休日。上野恩賜公園は、家族連れやカップル、そして外国人観光客で足の踏み場もないほどごった返していた。のんびりと長い鼻を揺らすアジアゾウの姿に、子供たちの歓声が青空に向かって弾けている。
その喧騒の中を、一組の凸凹な男女が歩いていた。白いスプリングコートに赤いサコッシュを斜め掛けし、綿菓子を片手に目を輝かせている若い女性――巣鴨の遺失物取扱センターの管理人である峰岸理沙と、黒いパーカーのフードを目深に被り、携帯ゲーム機から目を離さない少年――秋葉原の影山リアムだ。
「ほらリアムくん! 次はハシビロコウ見に行くよ! 全然動かない鳥!」
「……理沙姉(ねえ)、僕もう帰りたい。人多すぎ、ノイズ多すぎ。UVカットのパーカー着てても、この直射日光は肌に痛いんだけど」
リアムは露骨に嫌そうな顔をして、エナジードリンクの缶を開けた。彼の『電子視覚(デジタル・ヴィジョン)』には、休日の動物園を楽しむ人々の「ワクワク」や「興奮」といった感情が、極彩色のポップアップ広告のようなコードとなって視界を埋め尽くしている。インドア派でデジタル領域に生きる彼にとって、このアナログな熱気は脳の許容量を超える苦行だった。
「ダメ! ずっと秋葉原の地下でパソコンばっかり見てるからモヤシみたいになるの! たまには太陽の光を浴びて、動物たちのピュアなオーラでデトックスしなさい!」
理沙はリアムの腕をグイグイと引っ張る。彼女は完全に「休日のお姉ちゃん」モードだった。だが、動物園の奥まった場所、古い大きな木立の根元を通りかかった時。理沙がふと、ピタリと足を止めた。彼女の鼻が、子犬のようにヒクヒクと動く。
「……なに、この匂い」
理沙の表情から、先ほどまでの能天気な笑みが消えた。彼女は、人間の感情を『嗅覚』で感じ取ることができる。 綿菓子のような甘い香りも、動物たちの獣臭もかき消す、古くて、恐ろしく冷たい匂いがした。それは「錆びた鉄と、乾いた土、そして……冷たい涙」の匂いだった。
理沙は吸い寄せられるように、太く立派な根を張った木立の根元にしゃがみ込み、盛り上がった土を指先でそっと払った。そこから、黒ずんで緑青の浮いた、小さな真鍮の札がいくつか出てきた。動物たちの檻に付けられるネームプレートのような、古い『迷子札』だ。かすかに擦り切れた文字で『ジョン』『トンキー』といった名前が彫られているように見える。
リアムもゲーム機から目を離し、その札を覗き込んで顔をしかめた。
「……うわ、何それ。僕の目にも、なんかすごいバグったみたいなノイズが見えるんだけど。真っ黒で、すごく重たい……」
「うん。すごく、すごく悲しい匂いがする……」
理沙は真鍮の札をハンカチで包むと、真剣な顔でリアムを見た。
「リアムくん。これ、上野のセンターに届けよう。大先輩に挨拶も兼ねてね」
***
上野駅の地下深く。『上野駅 遺失物取扱センター』の磨りガラスのドアを開けると、そこには昭和から時計の針が止まったような、乾いた埃と古いインクの匂いが漂う空間があった。
「こんにちはー! 巣鴨の遺失物取扱センターの峰岸理沙です! こっちは秋葉原の影山リアムくん!」
理沙が元気に声を響かせると、カウンターの奥の革張り椅子に座っていた老管理人――結城(ゆうき)が、老眼鏡をずらしてゆっくりと立ち上がった。
「おお。あなたが巣鴨の峰岸さんですか。吉祥寺の相沢君から、話は聞いていますよ。元気の良いお嬢さんだと」
結城は、理沙の持つ「無垢な軽やかさ」に目を細め、穏やかに微笑んだ。
「それに、秋葉原の君も。よくこんなむさ苦しい地下まで足を運んでくれましたね」
「どうも。理沙姉に無理やり連行されただけなんで」
リアムがぶっきらぼうに会釈する。
「あの、結城先輩。ご挨拶もそこそこに申し訳ないんですが、これを見ていただけませんか」
理沙はカウンターに、先ほど見つけた真鍮の迷子札を置いた。
「動物園の土の中で見つけたんです。すごく、悲しい感情がこびりついていて……」
「……恩賜公園の土の中から、ですか」
結城の表情が引き締まった。彼はゆっくりと両手を伸ばし、その黒ずんだ札を手のひらに乗せた。
結城の能力、『感情の重量計(スケール)』が発動する。
――ズンッ……!!
「……っ!」
結城の腕が、目に見えて深く沈み込んだ。太い腕の筋肉が強張り、彼の顔にスッと脂汗が滲む。
「結城さん!? 大丈夫ですか!?」
理沙が慌てて身を乗り出す。
「……ええ。大丈夫ですよ。しかし……これは、なんとも重く、悲しい」
結城の両腕にのしかかっているのは、わずか数十グラムの真鍮の質量ではない。それは、何十年もの間、冷たい土の底で誰にも届くことなく押し殺されてきた「深い悲哀」と「無力感」の塊だった。
(……鉄の鎖のようだ。冷たくて、逃れようのない、絶望の重さだ)
結城の脳裏に、数十年前の上野動物園の情景が、モノクロームの映像となって浮かび上がる。昭和十八年。第二次世界大戦の激化に伴い、空襲で檻が破壊された際の危険を避けるため、軍から下された猛獣の殺処分命令。毒入りのじゃがいもを吐き出し、決して口にしようとしなかった賢い象たち。芸をすれば餌がもらえると信じ、飢えでふらつく体で必死に芸を繰り返した彼らの姿。
『許してくれ……。すまない、すまない……』
手塩にかけて育てた家族同然の動物たちが、徐々に痩せ細り、餓死していく様を見守るしかなかった飼育員の、張り裂けそうな心の叫び。その時に、血の滲むような力で握りしめられていたのが、この真鍮の迷子札なのだろう。飼育員の男が、動かなくなった動物たちの檻からその札を外し、誰にも見られないように、自分の罪と無力感を封じ込めるように土の底へ深く埋めたのだ。
結城は、静かに息を吐き、札をそっとアクリルケースに収めた。
「……これは、戦時中の猛獣処分の際、飼育員の方が手放せなかった痛みの記憶でしょう。……鉛のように、重い」
その言葉に、理沙は悲しそうに目を伏せた。
「結城さん……。私、その重い気持ち、吸い取りましょうか?」
理沙は、真剣な顔で提案した。
「私の力なら、その悲しみを浄化して、綺麗な思い出だけを残せるかもしれません」
だが、結城は静かに、しかしはっきりと首を横に振った。
「お気持ちは嬉しいですが、峰岸さん。それはしてはいけない」
「え……?」
「この『重さ』は、決して軽くしてはならないものなのです」
結城は、アクリルケースを慈しむように、太く固い指で撫でた。
「人間の感情には、忘れて良いものと、背負い続けなければならないものがあります。彼らが抱えた『無力感』や『自責の念』は、あまりにも残酷で重い。……しかし、その重さこそが、彼らが動物たちをどれほど深く愛していたかという証なのです」
リアムが、ぽつりと口を開いた。
「……エラー(悲しみ)を無理やり削除したら、システム(彼らの愛)の歴史そのものが改ざんされちゃうってこと?」
結城はリアムを見て、穏やかに微笑んだ。
「デジタルな表現は分かりませんが、そういうことなのでしょう。痛みを消してしまえば、彼らの愛もまた、痛みのない薄っぺらいものになってしまう。私は、彼らの愛の重さを、そのままの形で残してあげたいのです」
理沙はハッとした。彼女はかつて、他人の負の感情を安易に消し去ろうとして、自身が黒い蔦に飲まれそうになった経験がある。感情は、ただ消せばいいというものではない。結城の言葉は、そのさらに先にある「哀しみの受容と供養」を教えてくれていた。
「……結城さん。私、まだまだ未熟ですね」
理沙は、恥ずかしそうに深く頭を下げた。
「いいえ。あなたのその軽やかで優しい心は、多くの人を救っているはずです」
結城は、孫を見るような優しい目で理沙を見た。
「私のような老人には、こうして重いものを代わりに持ち続けることしかできませんから」
***
夕暮れ時。結城は、理沙とリアムを伴って、再び上野恩賜公園へと足を運んだ。動物園の片隅にひっそりと佇む「動物慰霊碑」。閉園時間が近づき、周囲には人気がない。結城は慰霊碑の前に、あのアクリルケースをそっと置いた。
「彼らは、もうとっくに土の下で再会していることでしょう。この札も、本来あるべき場所へ」
三人は、慰霊碑に向かって静かに手を合わせた。遠くで、象の鳴き声が微かに聞こえたような気がした。それは悲鳴ではなく、穏やかな夕暮れを喜ぶような、平和な声だった。
リアムが、少しだけ真妙な顔で結城を見た。
「……アンタみたいなアナログな管理人がいるから、この街のデータ(歴史)は、まだバグらずに保たれてるのかもね」
結城はふっ、と笑った。
「ただの頑固な老人ですよ。……さて、若いお二人はこれからどこへ?」
理沙が、いつもの元気な笑顔に戻って答える。
「アメ横でケバブ食べて帰ります! 結城さんも一緒にどうですか?」
「ははは。私はお茶漬けで十分ですよ。お気をつけて」
結城は、夕日の中を歩き出す若き能力者たちを見送った。彼らの背中は、とても軽やかで、眩しかった。結城は自分の両手を見つめた。真鍮の札を持っていた時の、あの鉛のような重さはもう消えている。
「……また一つ、重さを量らせていただきましたよ」
老管理人は慰霊碑にもう一度深く一礼すると、穏やかな足取りで上野の地下へと戻っていった。
(第3話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

