初夏の不忍池は、青々とした大きな蓮の葉で水面が覆い尽くされようとしていた。ボート乗り場の近く、人目のつかない裏手で、ガシャァン! と金網が揺れる鈍い音が響いた。
「……チッ、ちょこまかと逃げ回りやがって。新宿から上野まで、随分と遠出したじゃねえか」
サングラスにヘッドホン姿の男――新宿駅遺失物取扱センターの管理人、須藤陸が、舌打ちをしながら金網の隅に追い詰めた「男」を見下ろしていた。
須藤の耳には、男から発せられる『死んでやる、全部壊してやる』という金属が擦れ合うような不協和音が、耳障りな重低音となって響いている。
男は、新宿歌舞伎町で借金を抱え、自暴自棄になって強烈な『破滅願望』を撒き散らしながら須藤のセンターに駆け込んできたチンピラだ。
鬱陶しく思った須藤がその男の感情を具現化して見せたところ、そのおぞましい怪物の姿に耐えきれず、パニックを起こして逃走してきたのだ。
自分のやったことが引き金となって男がこうなった以上、面倒だが放っておくわけにもいかない。
「ひ、ひぃぃ……! くるな! バケモノ……!」
「オラ、さっさとその喧しいノイズを吐き出せ。俺が下水に流してやるからよ」
須藤が首を鳴らし、男の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした、その時だった。
「新宿は、随分と騒がしいねぇ」
穏やかだが、よく通る声。須藤が手を止め、振り返ると、そこには丸眼鏡をかけた初老の男が立っていた。きちんとプレスされた駅員の制服。手には、池の清掃業者が使うような長いトングと、小さなバケツを持っている。
「あァ? なんだジジイ。すっこんでろ、怪我すんぞ」
須藤は柄悪く威嚇したが、老人は微塵も動じなかった。
「怪我をするのは、その若い衆の方でしょう。……須藤君と言ったかな。相沢君から、血の気の多い男だと聞いてはいたが」
「相沢……? てめえ、まさか」
「上野のセンターで管理者をやっている、結城です。まあ、私の庭でそんなに青筋を立てなさんな。少し休んでいきなさい」
結城の放つ、底知れぬ静かな気迫に、須藤は一瞬気圧された。その隙に、結城は怯えるチンピラの肩をポンと優しく叩いた。
「借金なら、交番で相談しなさい。命まで取られはしないよ。……ほら、行きなさい」
チンピラはポカンとした後、ハッと我に返ってペコペコと頭を下げ、逃げるように走り去っていった。
「あ、おいコラ! 逃げやがった……!」
須藤が怒鳴るが、結城は「まあまあ」と須藤の背中を叩き、不忍池のほとりにある藤棚の下のベンチへと彼を促した。
***
結城は、保温水筒から温かいほうじ茶を紙コップに注ぎ、不機嫌そうな須藤に差し出した。
「ほれ、飲みなさい。新宿の喧騒から離れて、たまには蓮の葉の揺れる音でも聞くといい」
「……俺は音が嫌いなんだよ。このヘッドホンが見えねえか」
須藤は悪態をつきながらも、紙コップを受け取り、ずずッと茶を啜った。
「それで、上野のジジイ……いや、大先輩が、俺に何の用だ? わざわざお茶出しに来たわけじゃねえだろ」
「いや、私はただ、池の清掃に立ち会っていただけですよ。池の底をさらうと、色々と『古いもの』が出てきますからね」
結城は、持っていたバケツの中から、小さなアクリルケースを取り出し、ベンチの間に置いた。中には、黒く変色し、泥がこびりついた「銀の指輪」が入っていた。
須藤はサングラスをずらし、それを一瞥した。彼の耳に、その指輪から微かな『音』が届いた。
「……うわ。なんだこれ、耳の奥にへばりつくような、すげえ陰湿なノイズがしやがる」
須藤は顔をしかめた。
『どうして来ないの』
『騙したのね』
『許さない』……
「女の泣き声……いや、恨み言か? ……チッ、数十年モノの怨念じゃねえか。気持ち悪ぃ」
「やはり、君には聞こえるのですね」
結城は静かに頷き、アクリルケースを両手でゆっくりと持ち上げた。
『感情の重量計(スケール)』。
ズンッ……!
結城の両腕の筋肉が、目に見えて強張った。顔に深い皺が寄り、息がわずかに荒くなる。須藤は、老人が見えない重圧に耐えているのを見て、思わず身を乗り出した。
「おい、大丈夫かよ……」
「ええ……。これは、水分をたっぷりと吸った泥のように重く、粘りつく。……強烈な『未練』と、それを裏打ちする『愛憎』の重さです」
結城の脳裏に、数十年前の不忍池の情景が浮かび上がっていた。
***
夜の不忍池。
駆け落ちを約束した若い女が、この池の畔で、たった一人で男を待ち続けていた。しかし、約束の時間を過ぎても、男は現れない。夜明けが近づくにつれ、女の心の中で、一途な愛が、絶望と憎悪へと反転していく。
『騙された』
『私だけを置いていった』
女は泣き叫び、彼から贈られた銀の指輪を指から引き抜き、泥の池へと力任せに投げ捨てた。その時の、底なし沼に引きずり込まれるような絶望の重さが、この小さな銀の輪に何十年も封じ込められていたのだ。
***
「……ふぅ」
結城は手を離し、静かに息を吐いた。
「駆け落ちの約束をして、男が現れなかったのでしょう。……この指輪には、その時の彼女の、逃れようのない愛憎が重く沈殿しています」
「……くだらねえ」
須藤は吐き捨てるように言った。
「そんな大昔の色恋沙汰のノイズ、さっさと叩き割って消し飛ばしちまえよ。そんなモン抱えてても、誰も幸せにならねえだろ」
須藤のやり方は相変わらず強引だ。相沢たちに諭されて以前よりは丸くなったものの、面倒な感情はさっさと下水に流して終わらせるという、根っからのこの乱暴な性分はそう簡単に取れそうにない。
だが、結城は首を横に振った。
「いいえ。これは、彼女が生きた証であり、彼女が誰かを本気で愛したという重さです。無かったことにしてはいけない」
結城はアクリルケースを開け、泥だらけの銀の指輪を素手で摘み上げた。そして、ゆっくりと立ち上がり、不忍池の水際へと歩いて行った。須藤も無言でその後を追う。
「もう、随分と長い間、冷たい泥の底で待っていたのでしょう」
結城は、初夏の風に揺れる蓮の葉を見つめながら、静かに語りかけた。
「彼が現れなかった理由は分かりません。事故だったのか、それとも本当に裏切ったのか。……ですが、あなたがこの池で流した涙の重さは、私が確かに受け取りましたよ」
結城は、銀の指輪を高く掲げた。
「もう、誰も待たなくていい。……ゆっくり、お休みなさい」
ポチャン。
結城の手から離れた指輪は、小さな水音を立てて、不忍池の穏やかな水面へと吸い込まれていった。波紋が広がり、そしてすぐに、何事もなかったかのように蓮の葉の下へと消えていく。
その瞬間、須藤の耳にこびりついていた「恨み言のノイズ」が、嘘のようにフッと消え去った。
「……消えた」
須藤は目を丸くした。絡みついていた糸が解けるように、自然に、ただ静かに音が鳴り止んだのだ。
「……水に還した、か」
須藤は頭を掻きむしり、大きなため息をついた。
「アンタのやり方は、どうも相沢の野郎に似てて気に食わねえ。一瞬で片付けりゃいいものを、いちいちかったりぃんだよ」
「ははは。新宿のような大都会では、私のやり方は悠長すぎるでしょうね。……君のような若い力が、あの街のバランスを保ってくれているんですよ」
結城は振り返り、須藤に向かって穏やかに微笑んだ。須藤は「ケッ」とそっぽを向いたが、その顔からは先ほどまでの殺気立った毒気は完全に抜け落ちていた。
「……まあ、新宿じゃ絶対に無理だが。たまには、こういう静かな場所で茶を飲むのも、悪くねえか」
須藤は飲み干した紙コップをゴミ箱に投げ入れると、ヘッドホンを首に掛け直した。
「俺は帰る。新宿の薄汚え地下が恋しくなってきた」
「ええ。お気をつけて。相沢君にもよろしく伝えてください」
須藤は片手を軽く上げ、背を向けて歩き出した。その背中は、来た時よりも少しだけリラックスして、足取りも軽そうに見えた。
***
結城は、須藤の背中が見えなくなるまで見送り、センターへ戻るために歩き出した。池の底に還した指輪は、物理的な形としてはもう手元にない。だが、その「重さ」と「記録」は、しっかりと上野の歴史の一部として残るのだ。
結城はセンターのカウンターに戻ると、台帳に万年筆を走らせた。
『拾得日時:令和9年5月25日』
『拾得場所:不忍池 池底』
『品名:銀の指輪』
『感情の成分:待ち続けた泥のような未練、および愛憎(※不忍池にて水葬し、供養済み)』
台帳を閉じ、結城は小さく息をついた。
「さて……私の定年まで、あと幾つの重さを量ることになるのやら」
結城は、自身の太く固い両手を見つめ、静かに目を閉じた。
不忍池の方から、初夏の穏やかな風が、地下のセンターに心地よく吹き込んできた。
(第6話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

