連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第9話:白紙の上の約束

第9話:白紙の上の約束
目安読了時間
約5分(約3,000文字)
小説ジャンル
サイバーパンク / SFファンタジー
主要登場人物
相沢、篠原綾乃
【あらすじ】メルトダウン寸前のシステム。事態を収束させるため、相沢はシステムを根底で動かしている「たった一つの感情」と向き合う決意をする。三十年の時を超え、二人の幼なじみが交わした約束が果たされる時。

東京駅 地下 統括本部 総司令室

***

ぐにゃりと内側へひしゃげた分厚い鋼鉄の扉が、不気味な金属音を立てて火花を散らした。限界を迎えたシステムの中枢、東京駅地下の総司令室。真っ赤な警告灯が狂ったように明滅し、壁や天井の排熱ファンからは、焦げ付いた電子基板の臭いが立ち上っている。その崩壊を始める部屋の入り口に、相沢は静かに立っていた。

「……相沢、くん」

ホログラムのコンソールにしがみついていた篠原綾乃が、信じられないものを見るように、ゆっくりと振り返った。黒縁眼鏡は床に落ちてひび割れ、整っていた白衣も乱れている。彼女の青ざめた顔には、絶望と混乱の涙が幾筋も張り付いていた。

「どうして……どうして私の邪魔をするの。システムが、壊れていくわ。……各駅から流れ込んでくるこの『感情(ノイズ)』は、重すぎるのよ。機械ですら耐えられないのに、どうして人間は、こんな汚くて痛いものを手放そうとしないの……!」

綾乃の声は、道に迷った子供のように震えていた。彼女には、どうしても理解できなかったのだ。自らの脳を、心を、すり減らすだけの不純物。それを消し去って、誰も傷つかない完璧な世界を創ってあげようとしたのに、なぜ当の人間たちが、わざわざその不純物をシステムに逆流させてまで守ろうとするのかが。

相沢は、騒音と警告音が渦巻く中を、一歩、また一歩と、綾乃の元へ向かって静かに歩みを進めた。彼がはめていた白手袋はすでに外され、露わになった素手の右手が、空気に触れて微かな熱を帯びている。

「……彼らが、自分の痛みを愛しているからです」

相沢の低く落ち着いた声が、総司令室の空間を穏やかに貫いた。

「痛みを、愛する?」

綾乃が、泣き笑いのような、悲痛な表情を浮かべる。

「そんなの、詭弁よ。現にあなたは、他人の感情のノイズに押し潰されて、昔あんなに泣いていたじゃない。……私は、あの日泣いていたあなたを、そしてあなたと同じように苦しむ人々を、ただ救いたかっただけなのに!」

相沢は、綾乃の目の前で足を止めた。そして、コンソールに表示されている五色の波形に右手でそっと触れた。五つの要石から逆流してきた強烈な感情の質量が、相沢の体内にダイレクトに流れ込んでくる。

だが、相沢の表情は崩れなかった。彼は流れ込む奔流を優しく受け止め、それを指し示しながら、綾乃の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「ええ、知っています。あなたの中にあった、あの日から今日までの純粋な善意に、嘘などありません。……ですが、綾乃さん。これらを見てください」

相沢の視線の先で、赤く明滅するモニターの上に、五色の脈動が鮮やかに弾けていた。

相沢の『視覚』には、システムを蹂躙しているはずの荒々しい感情の中に、力強く息づく「人間の生きた色」が、眩いばかりのグラデーションとなって視認できていた。

「これらはすべて、あなたが『ノイズ』として消去しようとしたものです。ですが、私は遺失物取扱センターの管理者として、たくさんの忘れ物と向き合う中で知りました。人間は、悲しみや絶望といった泥臭い痛みを抱え、それと向き合い、自らの手で受け入れるからこそ、前を向いて歩んでいけるのだと」

相沢は、静かに深い敬意を込めて語りかけた。

「痛みがなければ、他者への優しさは生まれない。悲しみを知らなければ、喜びの本当の価値は分からない。……あなたが創ろうとした白紙のユートピアは、確かに誰も傷つかない完璧な世界です。ですが、そこには泥臭く生きる『人間』がいないのです」

「……っ」

綾乃は、崩れ落ちるように床にへたり込み、両手で顔を覆った。

「じゃあ……私は……。あなたを救うためだけに、猛勉強して、自分を犠牲にして頑張ってきたこの数十年は……全部、無駄だったっていうの……?」

床にぽたぽたと落ちる涙が、彼女自身の、誰にも言えなかった「寂しさ」の重さを物語っていた。幼い日に交わした、泣いていた少年を救うという約束。その純粋すぎる祈りだけを燃料にして、人生のすべてを捧げてきたのだ。その前提が崩れた今、彼女の心もまた、システムと共に崩壊しようとしていた。

ピィィィィィィン……!!

その時、総司令室全体を物理的に揺るがすような、甲高い限界音がスピーカーから鳴り響いた。モニターの警告表示がすべて、真っ赤な「FATAL(致命的)」へと切り替わる。

『Warning: Core Server Meltdown Imminent.』
(警告:中枢サーバーのメルトダウンが差し迫っています)

「……ダメだわ」

綾乃が、涙に濡れた瞳で、火花を散らすメインフレームを見上げた。

「許容量を超えた。このままじゃ、システムが爆発する。……蓄積されていた東京中の感情が、コントロールを失って一気に逆流するわ。かつて新宿で起きた『黒い霧』の決壊なんて比じゃない。東京にいるすべての人々が、致死量のノイズを一度に浴びて、精神が完全に崩壊してしまう……!」

彼女の純粋な善意が産み出したシステムは、皮肉にも、東京を未曾有の精神災害に陥れる、巨大な爆弾と化してしまっていた。

「私のせいよ。私が、よかれと思ってやったことが、全部を壊してしまった……」

綾乃は諦めたように目を閉じ、迫り来る破滅をただ受け入れようとした。  

だが。

「……綾乃さん。顔を上げてください」

相沢の穏やかで力強い声が響いた。綾乃が恐る恐る目を開けると、相沢が彼女の目の前で、右手を高く掲げていた。彼の右手から、まるで真夏の太陽の光を凝縮したかのような、圧倒的に優しく、神々しい「純白の光」が溢れ出している。

「相沢、くん……? それは……」

「私の『浄化の光』です」

相沢は、眩い光を放つ右手を、暴走するメインサーバーのコアへ向けて静かに構えた。

「システムに流れ込んだ、何百万人もの『痛みの歴史』を、力任せにすべて消し去ることなど不可能です。それに、そんな強引なやり方をすれば、人々の大切な思い出ごと、街の記憶が消えてしまう。……ですが」

相沢の瞳が、限界の先にある深い覚悟を帯びて、優しく細められた。

「この巨大なシステムを、根底で縛り付けている『たった一つの強い感情』になら、私の光は届くはずです」

「たった一つの、感情……?」

「ええ」
相沢は、静かに微笑んだ。

「幼い私を救えなかったという、あなたの『無力感』。そして、誰も傷つかない世界を創らなければならないという、あなたの『悲しい強迫観念』です」

相沢は、最初から見抜いていたのだ。この東京を漂白しようとした巨大なシステムを動かしていた真のプログラム(コア)は、冷たい電子コードなどではない。目の前で泣き崩れている、篠原綾乃という一人の人間の、あまりにも純粋で、あまりにも悲しい「祈り」なのだと。

「……っ!」

綾乃の目から、大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。

「あの日、吉祥寺駅の片隅で、一緒に泣いてくれたあなたに。今度は私が、手を差し伸べる番です」

カッ!!!!!

相沢の右手から、これまでにないほど強烈で、そして限りなく優しい純白の光が放たれた。光は暴走寸前だった中枢サーバーのコアを包み込み、そして、床にへたり込んでいた綾乃の体を、春の陽だまりのような温かさで包み込んでいく。

「……相沢、くん……!」

白紙のユートピアの崩壊の足音が迫る、東京駅の地下深く。数十年の時を超えて、二人の幼なじみの、本当の「約束」が果たされようとしていた。

(第10話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

連載小説『感情の忘れ物8 東京・篠原綾乃編 ~白紙のユートピア~』第10話:ノイズまみれの青空
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